migihanshin’s blog

半身不随だけれど 明るく しぶとく 生きていこう!

二百三高地 1980年 日本

二百三高地 1980年 日本🇯🇵

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○あらすじ

「十九世紀末。ロシアの南下政策は満州からさらに朝鮮にまで及び、朝鮮半島の支配権を目指す誕生間もない明治維新政府の意図と真っ向から衝突した。開戦か外交による妥協か、国内では激論がうずまいていた。軍事力、経済力ともに弱小な日本にとってロシアは敵にするには強大すぎた。…略…その頃、伊藤は参謀本部次長の児玉源太郎と会見、対露戦の勝算を問うていた。児玉は早いうちにロシアに打撃を与え、講和に持ち込むしか勝つ道はないと訴えた。明治三十七年二月四日、御前会議で明治天皇は開戦の決議に裁可を下した。ここに日露戦争の幕が切っておとされた。」eiga.com

 

映画「203高地」俯瞰

日露戦争旅順攻囲戦における、203高地の日露両軍の攻防戦を描いた作品。第三軍の司令官・乃木希典を中心とし、大局(戦闘、戦争)の推移が描かれる。その一方で、第三軍に予備役された民間人を通じ、前線で戦う一兵卒の惨状、戦況に一喜一憂する庶民の姿、戦争の悲惨さも描写されている[1]。」Wiki

 

○所感

この映画は、子供の頃見た。よく分からなくて、寝てしまった。つまらなかった。その印象を引きずり今回見た。感動した。人の殺し合いを見てここまで感動するのは謎で不思議だ。何より、この俳優陣であろう。その層の厚さに驚く。そして日露戦争と言う、世界を変えた戦争だから勉強になる事が多い。ロシアの事まで知りたくなる。何より、乃木希典と言う人は、知れば知るほど私利私欲のない人だ。そして、曲が…涙。

 

仲代達矢 (乃木希典)M

乃木希典を少し勉強してみた。この人には色々な評価があるようである。彼でなければ、あんなに兵士を失わなかったと言う人がいる。無能と言う人もいる。まあ、自分で無きゃ何とでも言える。

彼は、侍の時からの軍人だ。本当に沢山の戦争をして来た。軍人とはこうゆう人間かと感じるに十分だ。203高地の戦闘で、2人の息子を亡くし、203高地に爾霊山(ニレイサン)と名付けた。国力にして10倍のロシアを破り、ロシア人に「私達は何の為に戦っているのだ?」と反芻させた。そして、それがロシア革命に繋がった。世界中の植民地が立ち上がった。

仲代のキラキラ光る目。どこに焦点を合わせているのかわからない目。人を憎まず、ただ悲しむ目。

 

丹波哲郎 (Kodama Gentarō)M

私は丹波哲郎が好きだ。彼は出る映画に自分を合わせない。自分が世界の中心である。素晴らしい。映画を観ていると、むしろ、この児玉陸軍大将こそ、日本を勝利に持ち込んだ様に見えなくもない。

 

三船 敏郎 (Emperor Meiji)M

明治天皇

三船敏朗の明治天皇が好きだ。多くを語らない。

 

あおい輝彦  (タケシ・コガ)M

物語の中心にいるのは、乃木希典と現場レベルではこの人である。ロシア文学を愛し夏目と出会う。そして結婚を約束する。ロシア文学は以前、「ガルシン」が好きで、おんなじ単行本を何度も読み返した。ロシア人の本質的な地味さがよく分かる。彼等の文学は日本のそれに近い。なのに何故、殺し合わなければならないのか…と思う。脱線したが、こうゆう内容も描いているところが、この映画の大きさである。そして、ロシア人に関心を持ってしまう。この人の最後(古賀中将)が、よくわからない。多分と言うのはあるが。

 

夏目 雅子  (サチ・マツオ)F

この映画から5年後に彼女は亡くなった。この映画頃から、目元にやつれを感じるのは、気のせいだろうか?これは映画エッセイであるから、ついつい脱線してしまうが、映画が1980年、夏目が白血病で亡くなったのが1985年、それから10年超、山口県防府の海の見える丘の彼女のお墓をお参りした。

 

「大楽寺(だいらくじ)は、山口県防府市にある曹洞宗の寺院。(くわのやま)の東の麓にある。正式名称は、放光山大楽寺。1381年(永徳元年)の創建。 明治維新に関係した人たちの墓所があることで知られている。またこの寺の梵鐘は、元は毛利水軍の基地であった三田尻御舟倉(みたじりおふなぐら)の時鐘で、船廠(せんしょう)内の大工小屋の屋上に作られた鐘楼に懸けられていたもので、明治維新後、御舟倉の廃止にともない大楽寺に移されたものである[1]。防府市指定有形文化財になっている[1]。寺の墓所は、本堂を挟んで大楽寺北墓地、大楽寺南墓地と2ヵ所ある。」Wiki

 

麓って書いてあるが、丘の上だったので違和感を覚える。マツダの人達が連れて行ってくれたのだ。海の上の丘というイメージが強い。この人が居れば、日本は任せて戦地に行ける…と、この女優1人で日本を担いだと言う名演技であった。

 

佐藤 允 (Ushiwaka Toratarō)M

兵隊として出ている俳優の中で最高の演技であった。

ロシア兵とのやり取りも見事であった。

チャールズブロンソンみたいだ。

 

長谷川明男  (米川乙吉)M

そして、兵隊とは何なのか?どれだけ底の知れない惨めなものなのか?それを彼は演じた。1人1人の俳優が、全力を投入して役に入り込んだ結果であろうと思います。

 

○爾霊山

「本争奪戦は、多くの戦死者を出した。第7師団旭川)は、15,000人ほどの兵力が5日間で約3,000人にまで減少した。ロシア側の被害も大きく、ありとあらゆる予備兵や臨時に海軍から陸軍へ移された水兵までもが、この高地で命を落とした。第3次総攻撃では乃木希典の次男・保典も戦死し、乃木は自作の漢詩で203高地を二〇三(に・れい・さん)の当て字で爾霊山(にれいさん、汝の霊をまつる山[4])と詠んだ。」Wiki

 

乃木希典は、この高地で2人の息子を失った。周りの人間が、5人のうち4人死んでいく戦争ってどうだろう。兵士達と、大日本帝国強いては天皇陛下との関係性はそこまで強かったのだろうか?いやそれもあるが、江戸、明治をとうして侍だった乃木さんとの関係にあるのではと思う。だから、明治天皇は彼を大事にし、乃木希典は、明治天皇に殉じたのではないか?と思うのである。

 

乃木希典の殉職

「東京に到着後、乃木は直ちに宮中に参内し、明治天皇の御前で自筆の復命書を奉読した。復命書の内容は、第3軍が作戦目的を達成出来たのは天皇の御稜威(みいつ)、上級司令部の作戦指導および友軍の協力によるものとし、また将兵の忠勇義烈を讃え戦没者を悼む内容となっている。自らの作戦指揮については、旅順攻囲戦では半年の月日を要したこと、奉天会戦ではロシア軍の退路遮断の任務を完遂出来なかったこと、またロシア軍騎兵大集団に攻撃されたときはこれを撃砕する好機であったにも関わらず達成できなかったことを挙げて、甚だ遺憾であるとした。乃木は復命書を読み上げるうち、自責の念の為に涙声となった。乃木は明治天皇に対し、自刃して明治天皇将兵に多数の死傷者を生じた罪を償いたいと奏上した。しかし天皇は、乃木の苦しい心境は理解したが今は死ぬべき時ではない、どうしても死ぬというのであれば朕が世を去った後にせよ、という趣旨のことを述べたとされる[136]。」Wiki

 

○ロシアから見た日露戦争NHK

https://jiyugaoka-kiyosawa-eyeclinic.com/syakaikeizai/4692/

 

そして、この映画を見ると、あまりに乃木希典がロシアにフェアであるため、何故?となる。そう、戦争とはどちらからの立場も観なくてはとなり、上記の動画を見た。見てください。ロシア戦争が如何に、人種差別に大業を成したかを。そして、この戦争で、ロシア国民はロシア帝政に愛想を尽かし、レーニンが出て来るまで何年も無い事を。そして、当事者であるロシアの皇帝が、如何に皇帝に向いていないかが分かる。そして、如何に日本が世界にとって出る杭になったかも分かる

 

「急激に国力と存在感を高めた黄色人種国である日本への人種差別感情にあわせて、中国利権からの締め出しによる焦り、さらに日比谷焼打事件の際、日本の群衆の怒りが講和を斡旋したアメリカにも向けられて東京のアメリカ公使館などが襲撃の対象となった。これに対してアメリカの世論は憤慨し、黄色人種への人種差別感情をもとにした黄禍論が高まっていく。」Wiki

 

○防人の歌(さだまさし)について

そして「さだまさし」涙にトドメ。

「 『万葉集/第十六巻』- ウィキソース

「鯨魚取 海哉死為流 山哉死為流 死許曽 海者潮干而 山者枯為礼」

読み:いさなとり うみやしにする やまやしにする しぬれこそ うみはしほひて やまはかれすれ

意味:海は死にますか 山は死にますか。死にます。死ぬからこそ潮は引き、山は枯れるのです。」Wiki

 

合掌