migihanshin’s blog

半身不随だけれど 明るく しぶとく 生きていこう!

三蔵法師・玄奘の旅路 2016年 中国

三蔵法師玄奘の旅路 2016年 中国🇨🇳

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○監督 フオ・ジエンチー 

 

○出演 ホァン・シャオミン, タン・ヂェンイエ, カイ・タン

 

 

○映画のジャンル

共産主義国中華人民共和国製の仏教映画、空の思想。

孫悟空も、猪八戒も、沙悟浄も出ない、三蔵法師の旅

 

○最後まで見たか?

見ました。

 

○ビックリしたか? 驚いたか?

この映画にネタバレはありませんが、あの中華人民共和国で作られた、その領土の雄大な自然を背景に存分に使い、一流のスタッフによる美しく洗練された映像で、大乗仏教の至福を語ることに驚かされました。

完成度は非の打ち所がありません。政治的には色々とあるのでしょうが、何故中国共産党がこの映画を作ることを許可したのか勘ぐってしまう。

 

○もう一度見たいか?

また見たいです。大乗の仏教徒なら歓喜してみるべきでしょう。

 

○一緒に見て困る人はいるか?

そういうシーンは全くありませんしある筈もない。ただ上座部仏教の信者とは見ない方がいいかもしれません。私の昔の家内とか(笑)

子供に見せるべきでしょう。仏教は漢字でも数千万の文字数。それをこれだけ苦労して持ち帰ったことを。例えば、この記事が約3000文字、般若心経が262文字、今ならあっという間にインドに、中国に送ることが出来る。そして苦労して持ち帰った字が、明らかに力を持って、人々の生き方に影響を与えてきた、そのことを。

 

○特筆すべき男優、女優はいますか?

三蔵法師役の男優は全然知りませんが、その謙虚な演技が正に帰依僧でした。実際の三蔵法師肖像画を見たことがありますが、もっと凄まじい感じだったのですが、この謙虚な感じで長い旅をし、インドにつき、ナーランダ寺院で五体投地のまま、取り乱しながら花道(正に花道)を這って進み、また中国に帰って街についた時のこらえるような、あふれ出すような涙、これらは全てこの謙虚な、仏教の禅定のような演技の賜物でした。その結果、生きた二つのシーンだったのでしょう。

また、馬と象が出てきますが、彼らの演技も秀逸でした。

 

○印象に残るシーンは?

三蔵法師の弟子と、ブドウの園のシーン(ぶどうが美しい)

②行くのを嫌がり、いったん倒れてしまった馬に助けられれるシーン。

③象とお経が水に溺れるシーン (お経は竹か何かに書かれているので濡れても大丈夫だとこれでわかりました。てっきり紙の巻物を持って帰ってきたと思っていた。)

④インドに着いて、五体投地で花道を進むシーン

⑤般若心経をテーマ曲としたラスト(通常 スタッフロール/エンドロールのところで消してしまうのですが、テーマ曲がそこまで引っ張り、羯諦羯諦まで続きます。)美しいテーマ曲。

どうもこの映画の詳細が分かりませんが、インドの有名俳優なども相当出ているのでは?

 

○監督については?

中国が誇る監督なのでしょう、知りませんが。

 

○仏教的にはどうか?

大乗仏教の映画です。西暦600年に生まれた玄奘三蔵その頃仏教が衰退傾向にあったインド、仏教の教えを中心に国を治めようとしていた聖徳太子。この600年代という時代は宗教的にインド、中国、日本が仏教でつながる時代だったのでしょう。

この映画でも思ったのですが、インド人は本当に不思議な思考をする人種だなと思います。一見個別具体的な細かい話が、実に深い智慧を含み広い普遍性を持っている。それをこの映画でも感じることが出来ます。

あの過酷な道程を大般若経、般若心経をはじめとした、お経を持ち帰り、更にそれを翻訳した玄奘三蔵に合掌です。これだけの映画なので大乗仏教のエッセンスに触れるくらいの内容は、仕方がないのでしょう。

 

○これ以上言う事は?(ここは、思い入れがある場合に書く。長文注意)

これは、別のブログで投稿していた記事をNOTEに移動しているのですが、グーグルでこの映画をググったら私のレビューが出てきて嬉しいです。

 

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この時、玄奘がナーランダー寺院で学んだ唯識

唯識(ゆいしき、サンスクリット語: विज्ञप्तिमात्रता Vijñapti-mātratā)とは、個人、個人にとってのあらゆる諸存在が、唯(ただ)、8種類の識(八識)によって成り立っているという大乗仏教の見解の一つである瑜伽行唯識学派)。ここで、8種類の識とは、五種の感覚(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)、意識、2層の無意識を指す。よって、これら8種の識は総体として、ある個人の広範な表象、認識行為を内含し、あらゆる意識状態やそれらと相互に影響を与え合うその個人の無意識の領域をも内含する。

あらゆる諸存在が個人的に構想された識でしかないのならば、それら諸存在は主観的な存在であり客観的な存在ではない。それら諸存在は無常であり、時には生滅を繰り返して最終的に過去に消えてしまうであろう。即ち、それら諸存在は「空」であり、実体のないものである(諸法空相)。このように、唯識大乗仏教(くう)の思想を基礎に置いている。また、唯識と西洋哲学でいう唯心論は、基本的にも、最終的にも区別される(後述)。」Wiki

 

合掌