migihanshin’s blog

半身不随だけれど 明るく しぶとく 生きていこう!

ウォリアーズ/インポッシブル・ミッション 1996年 イギリス

 

ウォリアーズ/インポッシブル・ミッション 1996年 イギリス🇬🇧

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あらすじ

ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争(ボスニア ヘルツェゴビナふんそう、セルビア・クロアチア語:Рат у Босни и Херцеговини/Rat u Bosni i Hercegovini)は、ユーゴスラビアから独立したボスニア・ヘルツェゴビナ1992年から1995年まで続いた内戦ボスニア紛争[1](: Bosnian War)ともいう。」Wiki

いいあらすじが見つからなくて、実際の戦争を参考にレビューを行う。

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○所感

この戦争に準じた映画、ドキュメンタリー、今回のようなTV映画は非常に沢山ある。でもイマイチ何が問題かさっぱりわからないので、今日は勉強も兼ねてレビューする。(なるべく簡単に)

でも、この映画はしっかりした映画だ。この国の平和維持活動に送られたイギリスの国連🇺🇳部隊の視点から、この紛争を見ている。

 

○何が分かりずらいか?

僕にとって最も分かりづらいのは、人種間、民族間の対立に見えないこと。敵も味方も、昨日まで同じユーゴスラビアと言う国の国民だった事である。そのユーゴスラビアが、1991年、崩壊した。これをユーゴスラビア紛争と言う。ユーゴスラビアとは第一次世界大戦以降、オーストリア=ハンガリー帝国が解体されて出来た国で、それ以来ユーゴスラビアとして、共産圏の東ヨーロッパの一員として、この国をまとめて来た。

 

○1992年、このユーゴスラビアの解体の動きの中で、ボスニア・ヘルツェゴビナが独立を宣言する。

「当時、同国には約430万人が住んでいたが、そのうち44%がボシュニャク人ムスリム人)、33%がセルビア人、17%がロアチア人と異なる民族が混在していた。」Wiki

この〜人、〜人が我々には全く区別が付かないし、日本人のというか、アジア人の欧米人コンプレックスから言えば、ここまで人間扱いされない欧米人を見た事が無い。特にこのセルビア人は激しい。セルビア人と言えば、第一次世界大戦の時、戦争のきっかけになった民族と記憶している。この地域をヨーロッパの火薬庫と言われた時もあったのだ。

 

ボシュニャク人とクロアチア人が独立を推進したのに対し、セルビア人はこれに反対し分離を目指したため、両者間の対立はしだいに深刻化。独立宣言の翌月には軍事衝突に発展した。」Wiki

 

「およそ3年半以上にわたり全土で戦闘が繰り広げられた結果、死者20万、難民・避難民200万が発生したほか、ボシュニャク人女性に対するレイプや強制出産などが行われ、第二次世界大戦後のヨーロッパで最悪の紛争となった。」Wiki

 

この時点で、人間が一年に殺される半数をここで殺してしまった。

この地域に関わる民族は、皆何らかの虐殺行為を行い、また受けているのだ。だから、何が悪いからこれを排除しようと言う処方箋が無い。ユーゴスラビアは、「奇跡的にこれを纏めた理想?」の国だったのだ。

我々から見れば、「殺し合いの好きな民族」としか見えないが、それ以上の精神的な理由があるのだろうか?

 

終結

「戦闘は、ボスニア・ヘルツェゴビナではなく、隣接するクロアチア国内のセルビア人居住区で行われた。セルビア人勢力の攻勢に対し、NATOは5月から7月にかけてセルビア人勢力の拠点を攻撃することで対抗した。また、セルビア人勢力による人質作戦への対応のため、NATOは国連保護軍の保護を目的とする緊急対応部隊を設立した。」Wiki

 

○出演者

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一人一人が、戦争に従軍した俳優みたいで、誰も目立ったヒーローは居ないし、あり得ない。こんな映画があっても良いだろう。

 

○この映画では、以上の要因からこの地に来たNATO軍を描いている。彼らは、あらゆる矛盾と遭遇する。彼らの任務はあくまで、怪我をした人の救出であって、まだ健康な人の救出ではない。死体すら危険な所である。それは、女性も子供も老人も含んでいる。彼らは若さゆえ、何度も脱線しそうになり脱線する。もし、UNの本分に逆らえばそれは、民族浄化を手助けする事になる。この言葉が何度も登場する。そして、このUN、NATO軍こそが、矛盾した存在で、しかし、この戦争には不可欠で、この戦争を最も知っている人々だと言う皮肉に辿り着くのである。我々には東京と大阪が民族浄化を行う事になったと言うSFすら考えるに及ばない。民族をどうやって見分けるのかの想像が付かない。そんな事を想像出来るのはオウム真理教ぐらいか?

 

民族浄化

ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争は、各交戦勢力が各々の民族の勢力圏を拡大することを目的としており、「陣取り合戦」の様相を呈していた。このような中で、支配地域から不安要因を取り除く目的で、自勢力の支配下に住む異民族を排除し、勢力圏を民族的に単一にするための民族浄化が行われた。」Wiki

 

合掌





 
 
 
 

トイレの花子さん 1995年 日本松竹

 

トイレの花子さん 1995年 日本🇯🇵松竹

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あらすじ

「日本全国の子どもたちが夢中になって噂した怪談の数々、“トイレの花子さん”などを下敷きとし、小学生たちが体験する恐怖との戦いと成長を描いた家族向けのスリリング編。

本町小学校の周辺で、小学生を狙った連続殺人事件が発生。同校に通う拓也のクラスで、生徒たちは自分も襲われないかと不安になる。そんな折、転校してきたばかりの美少女・冴子は人気者になったが、一転して殺人犯である幽霊“トイレの花子さん”だと噂されるように。彼女をかばう拓也だったが、冴子が疑われるような事態が発生。ある夜、拓は噂の真相を確かめようと深夜の校舎へ。そこで冴子と出くわし、意外な事実を知るが……。」Wiki

 

○所感

学校の怪談は、何故か子供の興奮を誘う。そこが、他の場所では駄目なのだ。学校か生徒が集まるところで、みんなが知っている人が、特に生徒が目撃者でなくてはならない。「学校のどこで」と具体的に場所を指定された方が良いし、出来れば目撃時間は、みんなが帰った後の校舎だとなお良い。どうもこの映画はそう言った重要な要件を満たしていない気がする。そもそも、転校生と言うのは面白く無い。アメリカ映画みたいだ。幽霊とは関係ない、うざったい大人の世界の臭いがする。それがトマト1の理由だ。

 

○監督:松岡錠司

 

○主演

 

○坂本なつみ:前田愛

僕から見ると彼女が主役。ショートカットのボーイッシュな少女。非常に良い雰囲気を出している。と思ったら、中村勘九郎の奥さん?なんか、ガクン。この人は芸能一家だね。

 

坂本拓也:井上孝幸

この子役は、元俳優と出てきた。この子の演技が駄目だ。転校生の河野に対して、曖昧な態度をとるのだが、それが演技か自かわからない。前髪が顔を隠しすぎて妹と変わらない。表情も豊かさが無く、駄目だ。

 

○水野冴子:河野由佳

女子が、この時期男子より体格が大きくなる場合が良くあり、この子は周りより大きい。だが、昨日今日来た彼女は外部者で、これでは学校の幽霊の関連者として弱い。だから、この3人の子供は重要なのだ。栗山千明は、いい女優なので彼女が入った方が良かった。謎めいた表情だし。

 

○坂本雄二:豊川悦司

この人は、良い俳優だが、変装して分からない様にこの映画のメンバーに混じっているみたいだ。駄目だ。そもそも、幽霊学園の恐怖とは、戦う物ではないのだ。事実を知る必要も無い。ただひたすら怖がる事が要求される。そして、来年入った子に引き継がれる。それが幽霊学園だ。

 

○僕の幽霊学園①

小学校の時、臨海学校があってここに泉ちゃんという幽霊が出るらしかった。小学校4年から小学校6年だ。あの臨海学校は、千葉の富浦にあって、そこで遠泳をしたのだ。中学の時もあったので、最長で2時間の大遠泳だった。「泉ちゃん」という霊が出るとあって、本当に怖かった。そもそも、この遠泳は怖かった。みんなで100名、200名、ずっと列になって海の上を見えたり消えたり、最初の頃は、こんな行事の存在さえ怖すぎる。そして、その夜、ホッとしたのも束の間「泉ちゃん」である。実は内容をあまりよく覚えていない?

○僕の幽霊学園②

小学校の時、火事があった。その日は何故か僕と僕の仲間は学校に遅くまでいて、雨の日だったので、傘で円陣を囲んで幽霊話を順番にやっていた。すると校舎の2階で火事が起きた。部屋の後ろの図工用紙が燃やされて犯人は逃げた。僕らは、先生から取り調べを受けたが、僕らが知ろう訳もない。事件はそのまま迷宮入りになったが、ある日先生が僕らを呼び付け言った言葉が忘れられない。「お前たち、本当に何も見なかったのか?実はあの日、あの夕方、先生の所に人が訪ねて来たんだ。○○さんという先生も知らない人で、学校にかなり強引に入って来て、その後居なくなったんだ。」それを聞いた時の恐ろしさと言ったら…背中から水を被せられた様に汗が💦吹き出し、幽霊怪談どころでは無かった。

 

以下は、民間信仰

 

「日本では江戸時代から昭和初期にかけて厠神(トイレのの信仰が盛んで、赤や白の女子の人形や、美しい花飾りを便所に供えることで厠神が祀られていた。戦後において厠神の信仰が廃れた後も、トイレに造花が飾られていることが多いのは、こうした風習の名残とみられている。トイレの花子さんの服が赤や白であること、名前が「花子」であるのは、こういった風習に由来するとの説もある[2]。」Wiki

 

幽霊と言って、

幽霊で無いものを見せない様に。

幽霊は見えなくてこそ幽霊だから。

 

 

下女 1960年 韓国

下女 1960年 韓国🇰🇷

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あらすじ

「今は亡き韓国映画界屈指の怪物監督キム・ギヨンが1960年に放ち、韓国映画オールタイム・ベストのアンケートで堂々第1位にも選出された、彼の代表作にして最高傑作。

妻子とともに平和な家庭生活を送る、作曲家で音楽教師のトンシク。彼は工場で働く若い女性たちを相手に音楽を教える一方、妻のチョンシムは内職仕事に励み、やがて彼ら一家は、平屋から念願の2階建ての新居に移り住み、新生活を始める。そんな折、3人目の子どもを妊娠中のチョンシムが病で倒れたことから、ミョンジャという若い女性がメイドとして雇われるが、不気味な彼女の存在が一家を思いも寄らぬ破滅の運命へ導くことに。」wow

 

○所感

前情報はいつもの通りない状態で見ました。韓国とは思えない何ともバタ臭い世界。ピアノの先生として学校で働くキムさんを、2人の女子生徒が狙います。aとbとしましょう。(名前がよく分からないのです)先生に懸想します。ところが、すぐに事が発覚し、学校を辞める事になったのは、主犯の女学生aより友達bの方。学校を辞めてしまいます。そして、ピアノの先生は家を修理して家でピアノ教室をする事にします。この辺り、脈絡ゼロです。その第一号生徒がまたaです。bが学校から辞めてしまい、罪悪感があってかないでか、また先生に懸想します。一方の奥さんは、ピアノの先生を信頼し切っており、3人目の子供を。

先生の子兄弟も意味ありげです。

弟は何処にでもいるヤンチャ坊主。

姉は、足に障害を持っている。家族は彼女に大人になって苦労しないようスパルタ教育を。

そして家も出来たので家事を手伝わせる為に、下女ウンシム登場。顔の扁たいエラの張った10代の未成年のような女性。これだけの紆余曲折の中、下女ウンシムは、簡単に先生に身体を捧げます。後悔する先生。そして、何も起こらぬうちから存在感を発揮する、ネズミ🐀の毒。

全ての出来事が全く脈絡無く畳み掛ける恐るべき駄作か、狂気の一本、としか言いようが無い。マニアは好きそう?

 

○監督 金綺泳

 

○出演

出演者は金振奎イ・ウンシム朱曾女嚴鶯蘭

この出演者写真から見て、左から、Leeさんは下女。チュさんは先生のミシンをやって家計を助ける奥方。旦那が寝取られるより、名誉を重んじる。キムさんは先生その人。アンさんは、写真が現代だが、多分子役だったんではないか?と勝手に、先生のヤンチャな息子。オムさんは、分からない!多分、娘?

 

○全ては脈絡の無いストーリー展開が、意図的なものなのか?ということ。これに尽きます。ただ、映画のリズムは妙にバランスが取れているので、最初のストーリー展開を無視する事も出来ない。下女は下女で、それなりに柔な所もある。何より奥さんが旦那の浮気を知ってからの、日本人にはあり得ない常識の展開。

 

○それにもう一つきになるのは、映像技術。映画の背景が、何度も歪むのである。実はこれはこの映画の不気味さを盛り上げている。でも、どうもこのフィルムが古いので、フィルムを修理しており、その為ではと思われる記事が。詳しくはこちら。

「輝国山人の韓国映画

http://www.hf.rim.or.jp/~t-sanjin/kimgiyon_gejo.html

を御覧下さい。詳細以上の営みに脱帽!

色々ありましたが、韓国映画界屈指の怪物監督キム・ギヨンさんに納得です。怪作です。「メイド」と言う新しい映画があるが、脈絡がある映画。でも、下女ウンシムさんに軍配。

 

合掌


 

 




 
 
 
 
 

静かなる血闘 1949年 日本大映

静かなる血闘 1949年 日本🇯🇵大映

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「日本映画界の名匠・黒澤明監督が名作「赤ひげ」に先がける1949年、同じく医師を主人公に。難病の治療に打ち込む青年医(三船敏郎)を描いた、感動のヒューマンドラマ。

昭和19年。青年医の藤崎は野戦病院での手術中、不注意からある患者から梅毒菌が感染してしまう。終戦後、復員して父親が経営する病院に勤める藤崎だが、彼には6年もの長い年月の間、その帰還を待ち続けた恋人・美佐緒がいた。しかし、もうその頃感染の徴候に気づいていた彼は男として医師として、彼女と交渉を持つわけにいかないと決め、彼女に婚約解消を申し出る。やがて彼は自殺しようとしていたダンサーるいと知り合うが…。」Wiki

 

○所感

今回、少なくとも3回目のこの映画。「赤ひげ」もそうだが、確実に泣けるこの映画。何故泣けるのか考えながら見ていたら、また泣いてしまった。黒澤の映画の魅力は、太い筆で描いた様に骨太な事である。こうゆう筆に限って、筆の曲がり曲線は繊細で細かい。一本一本の毛が合わさって大きな物語を紡いで行く。スクリーンを越えて、見る者の心を揺さぶる数少ない監督なのだろう。

この主題、梅毒スピロヘータは、私の昔の家内が、HIVだったので人事ではない。以前は1人隠れて悩んでいたが今はその必要が無くなった。HIVに感染しながら僕と寝るような女である。思えばこの自分の陰性は大きかった。勝利の前倒しだ。

 

○監督:黒澤明、中村倍也

 

○出演

 

○藤崎恭二:三船敏郎東宝

黒澤明と三船は、それは沢山の映画を生み出して来た。その映画の設定は違えど、その根底にあるのは、ヒューマニズムであり、それを守る闘いだ。見える敵もあったが、今回は見えぬ敵だった。戦争が終わったばかりの日本で、スピロヘータと言う病気がどれほどの脅威だったか分からない。しかも今でさえ特効薬の無い病気である。

 

「梅毒の徴候や症状は進行に応じた4段階でそれぞれ大きく異なる。第2期以降の性器や全身の皮膚の特徴的な薔薇模様で知られる。3週間後、3ヵ月後、3年後等各期ごとに治療を受けないと、自然完治と誤解するような潜伏期を3度挟みながら、更に悪化した病状が発現していき、最終的に死に至ることもある。症状が出ていない期間も感染力を持ち、体内は悪化の一途を辿っており、治療法は医師から完治診断を受けるまでペニシリン系のアモキシシリンを投与を受けるのみである[2][3]。」Wiki

 

この病気の恐ろしさは、とことんまで人間を試す事にあるのではないか?それは、感染した人間もそうであるが、それを囲む社会も………

 

「予防に有効なワクチンは存在せず、ペニシリン系の抗菌薬の投与により治癒自体はするが免疫は獲得できず、梅毒トレポネーマに再感染した場合は再び罹患する[1][5]。感染すると他の性病にもかかりやすくなるため、ヒト免疫不全ウイルスと併発するケースが度々ある[6][7][8][9]。」Wiki

 

医師、藤崎恭二は、運悪くこの病気に感染してしまい、戦争前に結婚を約束していた松本美佐緒と付き合わないようにする。その訳を言わない。それは、藤崎にとって、彼の人格の棄損でもあった。

 

「主に性行為オーラルセックスキスにより、生殖器肛門から感染、皮膚粘膜の微細な傷口から侵入し、進行によって血液内に進む。」Wiki

 

○藤崎孝之輔:志村喬東宝

藤崎恭二のお父さんの医師、藤崎孝之輔は、息子の梅毒感染を知り息子を怒る。しかしそれが、医師の本分の中に起きた、無作為の事故である事を知り、顔色を変え絶句する。それは丸で、僕の元家内が、病院でaidsの陽性だと分かった時の元家内の母の私への怒り。そして直後、そのaidsは、元家内が他所の男から持ち込んだと言う事が分かった時の絶句に近かった。合間が全く一緒なのだ。

 

○松本美佐緒:三條美紀

医師藤崎の婚約者。可哀想だが、彼女はこの「静かなる決闘を知らない方が良いのだろう。

 

○峯岸るい:千石規子東宝

最近感じたのは、映画と言うのは、勿論主人公がいて、その相手がいるわけである。黒澤明の映画に限らずかもしれないが、物語全体に参加して劇中の観客の様な役割をする人が重要だと思う。この映画においては、このダンサーるいである。彼女のこの病院に於ける精神的成長が、実はこの映画を立体的に仕上げている。病院の屋上に並ぶ白いシーツ。子供の頃入院した、江古田の病院を思い出した。

 

○中田進:植村謙二郎

そして、実際に梅毒の感染を、彼等にもたらした男、中田。梅毒を嘗めている。人は人の運命を軽んじる事は出来ない。客は、梅毒を憎み、反面中田の様な男がある時、梅毒に密かに喝采を送る。全ての人間を除く生物の意志は、決して悪意に従って行われるものではない。それを理解しなくてはならない。悪意を持つ事が出来るのは人間だけだ。

 

「自然環境のいたるところに見られる常在菌の一種でもある。一部のスピロヘータヒトに対して病原性を持つものがあり、梅毒回帰熱ライム病などの病原体がこれに該当する。またシロアリや木材食性のゴキブリ消化管に生息するスピロヘータは、腸内細として宿主が摂った難分解性の食物から栄養素を摂取したり、エネルギーを産生する役割にかかわっている可能性が指摘されている。」Wiki

 

○ギブスの子供

先般も述べたが、僕も幼稚園の時事故に遭い、病院に入院してギブスを嵌めた。その時、先生から「水を飲んじゃダメだ」と言われた。それで、飲んでもいい日が来て、看護婦さんが、ガーゼに含ませて飲ませてくれた水の美味かった事、美味かった事。ちょっと、この映画の表現は弱いような気がした。まあ、良いけど。

 

○木が枯れまた咲く柵

最後に、この時代の映画に必ずと言って出てくる柵にある花木。特にこの頃の黒澤明作品に多い。

 

合掌





 
 
 
 
 
 
 
 

赤々煉恋  2013年 日本

 

赤々煉恋  2013年 日本🇯🇵

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あらすじ

「自ら命を絶った女子高生・樹里は、浮遊霊として街をさまよう。母やクラスメイトなど、誰に話しかけても反応はなかった。そんな孤独な浮遊霊の彼女は、不気味な怪物・虫男が見えるようになる。それは、心の弱った人間に取り憑いて、自殺へと導く死神のような存在だった。」google

 

○所感

ありそうでなさそうな映画。途中まで、樹里が死んだ後の霊魂だと気が付かないのが良い。やはり、映画は無の状態で見るのが最高の贅沢だ。ただ、途中から、CGか何か悪魔が入ってきて、それでは何か人間に出来ない事をやるのか?と言うとただ飛ぶだけ。出で立ちが少し変わっているぐらいか?何せ、樹里の存在感、は良い。ただ、何故自殺するのかが希薄。そこが不満か。後、いつも意味不明な謎の女優、吉田羊。羊の人工的な鼻の方が余程、CGより怖く、羊は死後の世界の伏線だと思わせた。

 

○監督: 小中 和哉

 

○出演

 

○樹里 - 土屋太鳳(小学1年:平瀬麻衣

主人公。ほぼ、この映画は彼女の演技力に支えられている。成る程、人は自殺して後、自分のいない街に帰ったら、こんな感じなのだろう。座っちゃいけないところに座り誰も咎めず、返事をしない人に話しかけ、いい加減分かってるのに、一度死んだ自分の死に場所は無い。仲間もいない。そうゆう人をなかなか演じられるものではない。でも、気付く人が時々いて、それを希望に死んで行くのだろう。

 

○ミドリ - 清水富美加(現在のミドリ:吉田羊

彼女の楽しい友人との日々は良かった。清水さんの演技力は、一時の為せる若さだけなのか、それを監督が上手く攫い、活けたものか知らない。でも、あの時に戻りたいと言う思いにさせるに十分だった。それだけに、あまりにも顔がかけ離れ過ぎてる羊。残念だ。この人じゃ、映画が別の世界に行ってしまう。

 

○潤也 - 吉沢亮(小学1年:神田怜音

彼も活けられた口か?

 

○保子(樹里の母) - 秋本奈緒美

秋本の存在感も良かった。この人は若い頃の美人パリパリの頃より、この頃が良い。ただそれだけに、自殺の原因が弱い。これは監督の責任だろうか?自殺は、原因が分からないにした方が楽だから。

 

○りんご - 西野瑠菜

唯一、樹里が分かる子供、林檎🍎。そして、彼女の境遇が、樹里を引きつけているのかも。

 

○祥子(りんごの母) - 有森也実

え?有森?ただそれだけ。有森とは思えない。

 

○自殺とは

その自殺の動機は明快だ。このまま生きていたら、どんな辱めを受けるか分からないからだ。約1カ月、ショッピングセンターを一人で周り、車の中で駐車場から飛び降りる🚗チャンスを待ち、シズラーで最後のステーキを何度も食べ、結局この世の中は居心地が良く、家に戻ったら、車のフロントシートがびっしょりだった。そんな日々を過ごした。流石にこれではいかんと思い、コンドミニアムの15階の1室を借りて、これも何度となく窓から飛び降りようと、1cm、1mm、と体を乗り出したが、何故か宙に浮くまでの距離は遠く、宙から落ちるには更に遠く、汗塗れで何度も朝を迎えた。そうこうしている間に、1階で大勢の救急隊員が、トランポリンを準備している事に気がついた。死ぬ勇気と自由すら無かった。でも死んだら逃げられるとは思ったが、救われると言う気はしなかった。味方は誰もいないのだ。それが、樹里の気持ちだ。生きてそれを味わうとは…

 

合掌





 
 
 
 
 
 
 
 

野火 1959日本大映

野火 1959日本🇯🇵大映

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大岡昇平の同名小説を、和田夏十が脚色し市川崑が監督した反戦映画。

病院にも部隊にも見放された田村は、フィリピン戦線のレイテ島をさまよっていた。同じように敗走している仲間と病院の前で合流するが、その病院が砲撃を受けたため、田村は一人で逃げ出す。食べるものもなく、仲間を失った田村は、草を食べて生き延びていた。やがて生き別れたかつての仲間である永松と安田と再会。二人は殺した味方の兵士を“猿”と称し、その肉を食べていた…。」all cinema

 

○監督: 市川 崑

 

○原作者: 大岡昇平

 

「『野火』(のび、Fires on the Plain)は、大岡昇平小説1951年に『展望』に発表、翌年に創元社から刊行された。作者のフィリピンでの戦争体験を基にする。死の直前における人間の極地を描いた、戦争文学の代表作の一つ[1]。第3回(昭和26年度)読売文学賞小説賞を受賞している[2]。」Wiki

 

フィリピンの山中で病気のため軍隊からも病院からも追放された兵士が主人公。人肉食いという倫理問題を提出して、戦争と生存と人間性の関係を追究した戦争文学。」Wiki

 

「同様に、より多くの観客の共感が得られるよう、原作に存在した「神を巡る問題」は意図的にその描写を避け、暗喩な表現に留めている。

完成した映画を鑑賞した原作者の大岡昇平は「だいぶ小説と違うね」と感想を述べたが、市川は「原作の精神は尊重しているし、神様のことは全部排除したけど、それを底に滲ませてはいますよ」と応じ、大岡も「その他は結構です」と返した[10]。」Wiki

 

○所感

野火は、子供の頃、親父の本棚にあって、読んでみようとしたが、最初から理解する能力がなく挫折した。今、市川崑の野火を見つけ、これは!と期待して見てみたが、つまらなかった。思わず、トマト🍅とするところであった。正直、キャストが弱いなあと思ったのであるが、監督は、僕は嫌いではないので、期待したのが失敗だった。2015年も見て見ようとは思うがどうかな。小説が得意として映画が苦手とすること、或いはその逆。そして、原作を読んでいないからわからないが、宗教的側面を映画でカットしたのだと言う。上記大岡昇平の感想は、この映画が不満以外の何物でもない。読んでいない偉大なる原作に敬意を表してトマト🍅🍅だ。

 

○出演

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グーグルさん、船越は、写真違います。

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こっちです。仲代達也みたいな顔です。

アマゾンさんすみません。

 

○実質的出演者 

○船越英二: 田村 

レビューによっては、一等兵と言う表現をされているが、この役の描き方では、彼の身分は重要ではない。そう言う人肉食というフィクションの中で彼を描いたのだから当たり前だが、どこへ行っても田村は、不死身の身分不明の男だ。病院にも部隊にも見放された田村だから、大日本帝国からも自由だ。だから、出演解説は、彼1人で十分だ。かと言って、人肉食を詳細に語れる舞台ではなく、しかも宗教の話は、実際には滲んでもいないのだから、面白いわけがない。僕は思う。これはむしろ、身分とか組織の中で語られる映画だった。そして、天皇とか王とかそう言う身分が絡むべき題材ではとも、思った。

(勘違いしないで欲しいのは僕は天皇制支持者である。何故なら、全ての人間が行う出来事は、理屈では語れない事があるからだ。日本が今日までやってこれたのも日本固有の神のお陰で、戦争に負けたのもそれを過信した為と思ってる。)

だって、この戦争こそ、大きな人肉食行為ではないか?人間は、その身分の違いから、その都合で何十万、何百万、何千万を死なせる事が出来るのだから。田村が遭遇していることは、神様のことを排除して考えることは出来ない。少なくとも、私小説的なナレーションが欲しかった。この映画の問題点は、映像に対する過信だろう。

以下に、Wikiからコピペした出演者を貼り付ける。

 

 

○ところで、東南アジアの各国と日本は🇯🇵現在表向きに、大概友好的である。このフィリピンもそうである。しかし、これから先、間違えている事は間違えているという事が言えない国交がどのような悲劇を生むかを考えなくてはならない。そうしないと、大事な自国民に嘘をつく事になる。

 

合掌






 
 
 
 

ベリッシマ 1951年 イタリア

ベリッシマ 1951年 イタリア🇮🇹

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○あらすじ

「ローマ郊外の名高い撮影所チネチッタでは、ある映画会社が募集した子役少女のコンテストが行なわれている。わが子を未来のスターにと夢見る母親たちが娘を伴ってつめかけ、行列をなして順番を待っていた。マッダレーナ(アンナ・マニャーニ)も、そんな涙ぐましい母親のひとりだ。彼女は、大の映画ファンで、野外上映されているハリウッド映画を見ては、スターたちに憧れ、ぐうたらな亭主との貧しい生活の中で、わずかながらの楽しみを味わっていたのだ。チャンスとばかり、娘マリア(ティーナ・アピチッラ)をスターにするための彼女のあらゆる努力が開始した。」movie walker 

 

○所感

自分が若く美しい時代。そして、娘が生まれ自分の美しさを持って行ってしまった。自分の分身に夢を託す。娘が成功するなら何でもやる。成功すれば、全てが変わる。人生はバラ色に、でもその先がどうなるかわからない点は、普通の人生と何ら変わりない。そうゆう映画。多分、ネオレアリズモの時代には先鋭的な、率直な表現。「揺れる大地」にも繋がる表現だ。ただ、この後、ハリウッドにせよ、日本にせよ、こうゆう題材が多く、そうゆう意味で、この映画がちょっと退屈な点はある。

 

○監督: ルキノ・ヴィスコンティ

 

○出演

 

○ マッダレーナ:アンナ・マニャーニ

彼女のエネルギーが全ての映画。とにかく、貧しい我が生活をなんとかしたい。その為には、娘にオーデションに合格してもらわないといけない。思い付く限りの彼女の活動。でも何か足りない。彼女は、禁断の果実に手を出す。だが、逆に彼女のこのような性格だからこそ、救われたのかもしれない。それにしてもこの人は出演作が多い。

 

○マリア:ティーナ・アピチェッラ

マッダレーナの娘。

純粋に子供。本当に子供。これぞネオレアリズモの子供である。ただ、それだけに、謎が残る。ネタバレなので言えないが、便宜的設定だったのだろうか?でもそれじゃネオレアリズモが…

 

○スパルタコ:ガストーネ・レンツェッリ

彼の実家だと思うが、シーフードの店だろうか?なんとも言えないい雰囲気。貧しい海に突き出たバラック東南アジアのこの手の店のオリジナルだろうか?東南アジアで、イタリア人の店に良く行った。特に、白ワインで蒸した貝料理は絶品だった。アサリ、帆立、ムール貝薄く硬いピザも好きだった🍕。イタリア人🇮🇹って、お高い他のヨーロッパ人に比べ、あっけらかんとしていて好きだ。勿論、この為に苦労している事も多いのだろうけれど。

 

○アンノヴァッツィ:ヴァルテル・キアーリ

所謂、プレイボーイ。

彼は、本当にマッダレーナが好きみたいで、拒まれれば拒まれるほど盛り上がるという奴か?

 

リアリズムの方法で現実を描写する傾向は、当時のイタリアで支配的だったファシズム文化への抵抗として、また頽廃主義の克服として、1930年代ごろすでにあらわれ始めた新たな社会参加から生まれた。知識人は歴史的責任を自ら引き受けなければならず、人々の要求を代弁しなければならないという考え方が、この時期広まっていた。このため、ネオレアリズモの作家・映画人たちは、日常語を模範とした平易で直接的な言語を採用した。」Wiki

 

○俳優、女優

マッダレーナの娘。その徹底した素人ぶり。これこそが、ビスコンティが求めたネオレアリズモの精神なのだと思う。カメラは、彼女が意地でも素人である点を強調する。それを、母は少しでも女優らしくと、粉飾する努力をする。俳優、それは夢の職業である。と同時に、相当な苦労をする事だろう。だから、思わず、将来設計とか人生設計とか考えるんだろうが、マッダレーナが生命保険のCMに出ていたらどうか?という事である。それで俳優業は成り立つのかという事である。吉永小百合のような人は、これを両立している稀有な女優だと思うが、あの人も後輩の事を考えてあげるべきだろう。俳優とタレントは違う、これは絶対の真実でレアリズモだと思う。