migihanshin’s blog

半身不随だけれど 明るく しぶとく 生きていこう!

ベリッシマ 1951年 イタリア

ベリッシマ 1951年 イタリア🇮🇹

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○あらすじ

「ローマ郊外の名高い撮影所チネチッタでは、ある映画会社が募集した子役少女のコンテストが行なわれている。わが子を未来のスターにと夢見る母親たちが娘を伴ってつめかけ、行列をなして順番を待っていた。マッダレーナ(アンナ・マニャーニ)も、そんな涙ぐましい母親のひとりだ。彼女は、大の映画ファンで、野外上映されているハリウッド映画を見ては、スターたちに憧れ、ぐうたらな亭主との貧しい生活の中で、わずかながらの楽しみを味わっていたのだ。チャンスとばかり、娘マリア(ティーナ・アピチッラ)をスターにするための彼女のあらゆる努力が開始した。」movie walker 

 

○所感

自分が若く美しい時代。そして、娘が生まれ自分の美しさを持って行ってしまった。自分の分身に夢を託す。娘が成功するなら何でもやる。成功すれば、全てが変わる。人生はバラ色に、でもその先がどうなるかわからない点は、普通の人生と何ら変わりない。そうゆう映画。多分、ネオレアリズモの時代には先鋭的な、率直な表現。「揺れる大地」にも繋がる表現だ。ただ、この後、ハリウッドにせよ、日本にせよ、こうゆう題材が多く、そうゆう意味で、この映画がちょっと退屈な点はある。

 

○監督: ルキノ・ヴィスコンティ

 

○出演

 

○ マッダレーナ:アンナ・マニャーニ

彼女のエネルギーが全ての映画。とにかく、貧しい我が生活をなんとかしたい。その為には、娘にオーデションに合格してもらわないといけない。思い付く限りの彼女の活動。でも何か足りない。彼女は、禁断の果実に手を出す。だが、逆に彼女のこのような性格だからこそ、救われたのかもしれない。それにしてもこの人は出演作が多い。

 

○マリア:ティーナ・アピチェッラ

マッダレーナの娘。

純粋に子供。本当に子供。これぞネオレアリズモの子供である。ただ、それだけに、謎が残る。ネタバレなので言えないが、便宜的設定だったのだろうか?でもそれじゃネオレアリズモが…

 

○スパルタコ:ガストーネ・レンツェッリ

彼の実家だと思うが、シーフードの店だろうか?なんとも言えないい雰囲気。貧しい海に突き出たバラック東南アジアのこの手の店のオリジナルだろうか?東南アジアで、イタリア人の店に良く行った。特に、白ワインで蒸した貝料理は絶品だった。アサリ、帆立、ムール貝薄く硬いピザも好きだった🍕。イタリア人🇮🇹って、お高い他のヨーロッパ人に比べ、あっけらかんとしていて好きだ。勿論、この為に苦労している事も多いのだろうけれど。

 

○アンノヴァッツィ:ヴァルテル・キアーリ

所謂、プレイボーイ。

彼は、本当にマッダレーナが好きみたいで、拒まれれば拒まれるほど盛り上がるという奴か?

 

リアリズムの方法で現実を描写する傾向は、当時のイタリアで支配的だったファシズム文化への抵抗として、また頽廃主義の克服として、1930年代ごろすでにあらわれ始めた新たな社会参加から生まれた。知識人は歴史的責任を自ら引き受けなければならず、人々の要求を代弁しなければならないという考え方が、この時期広まっていた。このため、ネオレアリズモの作家・映画人たちは、日常語を模範とした平易で直接的な言語を採用した。」Wiki

 

○俳優、女優

マッダレーナの娘。その徹底した素人ぶり。これこそが、ビスコンティが求めたネオレアリズモの精神なのだと思う。カメラは、彼女が意地でも素人である点を強調する。それを、母は少しでも女優らしくと、粉飾する努力をする。俳優、それは夢の職業である。と同時に、相当な苦労をする事だろう。だから、思わず、将来設計とか人生設計とか考えるんだろうが、マッダレーナが生命保険のCMに出ていたらどうか?という事である。それで俳優業は成り立つのかという事である。吉永小百合のような人は、これを両立している稀有な女優だと思うが、あの人も後輩の事を考えてあげるべきだろう。俳優とタレントは違う、これは絶対の真実でレアリズモだと思う。