migihanshin’s blog

半身不随だけれど 明るく しぶとく 生きていこう!

他人の顔 1966年 日本

 

他人の顔 1966年 日本🇯🇵

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あらすじ

「奥山常務は新設工場を点検中、手違いから顔に大火傷を負い、頭と顔を繃帯ですっかり覆われた。彼は顔を失うと同時に妻や共同経営者の専務や秘書らの対人関係をも失ったと考えた。彼は妻にまで拒絶され、人間関係に失望し異常なほど疑い深くなった。そこで彼は顔を全く変え他人の顔になって自分の妻を誘惑しようと考えた。病院を尋ねると精神科医は仮面に実験的興味を感じ、彼に以後の全行動の報告を誓わせて仮面作成を引受けた。」Wiki

 

○監督:勅使河原宏

 

○原作・脚本:安部公房

 

○音楽:武満徹

 

○所感

この映画は、実験映画であろうと思ったら、やはりそうでした。見終わった後に、安部公房の原作である事を知り、三島由紀夫も評価する作品であるらしい。確かに、白い図面、構図、撮影が特にシュールだ。。この世界を見て、これは実験映画なのでは?と僕は思ったのだろう。そして、仲代の語り、平幹二朗岸田今日子の全てがベストチョイスである。こうなると面白い他無いが、終盤に近づくにつれて、仲代の役そのものが失速し割に平凡な終わり方になってしまう。原作は違うのだろうか?ケロイドの女の絡ませ方も不満だ。同じ時制にいるのかいないのか時差がよくわからない。しかも、彼女は実験映画として、個人を失くしてしまうほど顔を破壊されていない。もうひとつ実験があるようで、気が散ってしまう。

むしろ、京マチ子前田美波里を、深めてくれた方が良かった。

京マチ子の官能的な肉四肢、(昔よく成人向け小説にあった表現>違っているかも)、前田美波里の白黒に映える褐色の肌。これだけの表現が勿体なかった。

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○男:仲代達矢

この様に考えると申し訳ないが、男のキャラクター1人に頼っている実験映画として、辛いものになってしまう。この人の極個人的な不幸と、本人の対面と言う小さな話になってしまう。以下、三島由紀夫の評価?

 

はふつう所与のものであつて、遺伝やさまざまの要因によつて決定されてをり、整形手術でさへ、顔の持つ決定論的因子を破壊つくすことはできない。しかも顔は自分に属するといふよりも半ば以上他人に属してをり、他人のの判断によつて、自と他と区別する大切な表徴なのである。つまりわれわれは社会のつながりを、自我と社会といふ図式でとらへがちであるが、作者はこの観念の不確かさを実証するために、まづ顔と社会といふ反措定を置き、しかもその顔を失はせて、自我を底なし沼へ突き落とすことからはじめるのだ。

この自我の絶対孤独が仮面を作り出すにいたる綿密きはまる努力は、あたかも作者の芸術的意慾とおもしろく符合してゐて、読者は作者と共にこんな難事業に取り組むことを余儀なくされる。仮面を作るに当つて、古典的客観的基準といふものは存在しないし、たとへ存在しても何の役にも立たない。第一、純粋自我がそのやうにして「他」の表徴を生み出すことができるかどうか、論理的な難点が先行するわけである。

— 三島由紀夫「現代小説の三方向」Wiki

 

この実験が、その小説の中の作業から、更に映画と言うものにして行くのに、並々ならぬ苦労があったと思われる。俳優自体はベストな選択をされており、例えば、(ヨーヨーの娘:市原悦子)は、認知症の毛があるが、主人公が以前あったおじちゃんだと、簡単に見抜いている。そうすると、こっちとして知りたいのは、何故、何故??となる。この映画の規模が壮大な為に、答えの見えない実験映画になってしまった。

 

○妻:京マチ子

上記のような見方をすると、この映画が如何に大変な課題の実験に取り組み、その為に頑張って最高のキャスティングをしているのがわかる。

 

○医者:平幹二朗、看護婦:岸田今日子

本当に、これ以外が見当たらないと言うキャスティングだ。僕は、岸田今日子は、昔はてっきり、ムーミンの声優だとばかり思っていた。しかし、この人は日本が誇る、表現女優だ。黒い十人の女(1961年)も見てほしい。ヌーベルバーグだったのだ。その人がムーミンの声優だったのだから、思えば僕達の幼少時代は贅沢だ。

 

○ケロイドの女:入江美樹

やっぱりわからない。この実験の必要性が。原作を見なければいけないのだろう。

 

○実験映画

実験映画とは、我々が今生きていく未知の未来も実験映画の可能性がある。僕にとって、映画とは、自分を振り返って見るためのものである。決して、自分を忘れる為のものではない。全ての人間はそこまで姑息になる必要はない。

何十年も自分の人生は、実験映画でしたと言う。それを自分で遡って見ると、分かる。自分をこのような目に遭わせた、権力者でさえ、同じ目線に居て、実験対象として、実験動物として、僕と大した差はないことに気が付くのである。どんな人生も、無関係と言う事は無い!

 

合掌




 
 
 
 
 

羅生門 1950年 日本

羅生門 1950年 日本🇯🇵

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あらすじ

平安時代京の都羅生門[注釈 1]で3人の男たちが雨宿りしていた。そのうちの2人、杣売り(そまうり、焚き木の販売業者)と旅法師はある事件の参考人として出頭した検非違使からの帰途だった。実に奇妙な話を見聞きしたと、もう1人の下人に語り始める。

3日前、薪を取りに山に分け入った杣売りは、武士・金沢武弘の死体を発見し、検非違使に届け出る。そして今日、取り調べの場に出廷した杣売りは、当時の状況を思い出しながら、遺体のそばに市女笠、踏みにじられた侍烏帽子、切られた縄、そして赤地織の守袋が落ちており、そこにあるはずの金沢の太刀、女性用の短刀は見当たらなかったと証言する。また、道中で金沢と会った旅法師も出廷し、金沢は妻の真砂と一緒に行動していたと証言する。」Wiki

 

「同じ出来事を複数の登場人物の視点から描く手法は、本作により映画の物語手法の1つとなり、国内外の映画で何度も用いられた[1]。海外では羅生門効果などの学術用語も成立した[1]」Wiki

 

所感

今回で、5回くらい見るこの映画。黒澤の映画の最大のポイントである、ヒューマニズムがどちらかと言うと元々弱い映画である。でもまあ、こんな映画を良く考えたもんだなと思う。それだけに、あの荒んだ羅生門で最後に彼等が見つけたものが、ちょっと唐突過ぎるのだ。

 

「よくてらって人間を信じないと云うけれど、人間を信じなくては生きてゆけませんよ。そこをぼくは『羅生門で云いたかったんだ。つきはなすのは嘘ですよ。文学的にあまいというけれど、それが正直ですね。人間が信じられなくては、死んでゆくより仕方がないんじゃないかしら…。

— 黒澤明淀川長治「人間を信ずるのが一番大切なこと」」Wiki

 

この姿勢が、一貫して居なくては、この後の黒澤作品がなかった。人間は突き放すと何をしでかすか知れない、この視点が、黒澤には一貫しているのだ。むしろ、この映画のヒューマニズムは弱い

 

○多襄丸:三船敏郎

彼は、(彼の盗賊としての本分から言えば)本来であれば金沢武弘を打ち倒し、真砂を完全に支配して、うまくいけば、真砂の心まで奪う事が出来た筈だ。ところが、結果として本人は、検非違使に突き出され、彼の思い通りになったものは、嘘か本当か分からぬ真砂の貞淑と金沢武弘に対する勝利と言う話である。そしてこの男は見るからに嘘の塊のような男。

 

○金沢武弘:森雅之

彼は、この3人の中では、たった一人、既に命が無い人である。これこそが、この映画を世界に知らしめる故であり、しかも決して映画の主題では無い。当たり前のように語られる事実である。欧米の映画なら、この幽霊で一作出来てしまうのではないか?そして驚くべきは、この幽霊は、幽霊にして真実を知らない事である。人間は、嘘から逃れ、死んでも真実を知る事が出来ないと言う事である。あるいは、この巫女が本物出なくて、嘘をついている点も否定出来ない。

 

○真砂:京マチ子

そして分かるのは、幽霊より遥かに怖いものである。冗談ではなく、女性は怖い。自分が生き延びる事に正解があるため、何でもやれるのが女性だ。そこに、理屈は無い。

私の知る限り女性は、初産の呼吸の荒いなか、初産の子でありながら「あなたの子よ」と言って相手を欺いた。目の前で産道から取り出して見せた。生まれてきた子と、父ではない男を平然と記念写真を撮らせ、僕はその写真を持っている。それを筆頭に、この手の話にこの25年の間騙されて来た。残念ながらこの点においては、僕の経験が、黒澤明を上回っている。ヒューマニズムなど糞食らえと言う国の人々がいる。残念なことに、仏教徒だと言う。

 

「人間は、自分自身について、正直な事は云えない。虚飾なしには、自分について、話せない。この脚本は、そういう人間というもの、虚飾なしには生きていけない人間というものを描いているのだ。いや、死んでも、そういう虚飾を捨てきれない人間の罪の深さを描いているのだ。これは、人間の持って生れた罪業、人間の度し難い性質、利己心が繰り広げる奇怪な絵巻なのだ。

— 黒澤明『蝦蟇の油』」

 

「人間は以下の入力出来る全ての嘘を行使することが出来る。

①嘘を意識的に行う、言う、思う。

嘘を悪意を持って意識的に行う、言う、思う。

嘘を善意から意識的に行う、言う、思う。

②無意識に行う、言う、思う。

嘘を悪意を持って無意識に行う、言う、思う。

嘘を善意から無意識に行う、言う、思う。

③嘘を方便と思い善意から行う、言う、思う。

④嘘を方便と思い悪意から行う、言う、思う。

⑤複合的である。

⑥自分自身に行う、言う、思う。」

「人は国の名前なら、いくらでも嘘がつける。

しかもあたかも正しい事をしている仏様の方便と混同して」

by右半身

 

○旅法師:千秋実

○杣売り:志村喬

この2人が、もし僕が見たものを見たらどうであろう。そして、最後のシーンは正にいっしょじゃあないか?羅生門は、未だに健在である。

 

○最後に、日本の映画はかつてこれほどレベルが高かったんだと言う事。CMと映画は別物だったと言う事。お笑いと映画は別物だったと言う事。

「日本映画を一番軽蔑してたのは日本人だった。その日本映画を外国に出してくれたのは外国人だった。これは反省する必要はないか。浮世絵だって外国へ出るまではほんとに市井の絵にすぎなかったよね。われわれ、自分にしても自分のものにしても、すべて卑下して考えすぎるところがあるんじゃないかな? 『羅生門』も僕はそう立派な作品だとは思っていません。だけどあれはマグレ当りだなんて言われると、どうしてすぐそう卑屈な考え方をしなきゃならないんだって気がするね。」Wiki

 

ですので、羅生門は3トマト🍅🍅🍅である。でも、背景のレベルの高さを考えると後ろめたいので、+🍅

 

合掌




 
 
 
 
 
 

燃え尽きた地図 1968年 日本

燃え尽きた地図 1968年 日本🇯🇵

🍅

 

あらすじ

「男は妻を別居し、最も職業らしくない職業という理由で興信所の調査員になった。間もなく男は、ある女から失踪した夫の行方動向の調査を依頼された。しかし、女は夫を探すのには熱心ではなく男に協力的でなかった。男はまず失踪者が残していった運転手募集広告、喫茶店「つばき」の電話番号を手掛りに調査を始めた。しかし、いずれもはかばかしくなく、何の結果も得られなかった。そんな時、男は女の弟と名乗るやくざ風の男に会った。弟は失踪者の日記を見せるといって姿を消した。やがて失踪者の会社を訪ねた男は、失踪者の部下田代から、失踪者にヌード写真の趣味があったこと、失踪自体が半信半疑だと聞いた。男はそれが小心者の嘘だと思った。男は弟に会ったが河原に連れて来られ、そこで、やくざの乱闘に巻き込まれてしまった。この事件で弟は殺され、男も興信所から解雇されてしまった。〜〜〜」Wiki

 

所感

○最高につまらない映画。勅使河原宏監督、安部公房原作脚本、と言う意味では、「他人の顔」と同じなのだが、ここまでつまらなくなる物かと、唖然とした。「他人の顔」が失踪物と言うらしいが、これも一緒。失踪した夫の捜索を依頼された勝新太郎は、目が踊っている。実験と言う要素すら感じない。時間の浪費シリーズである。

 

○監督:勅使河原宏

 

○原作・脚本:安部公房

○男(探偵):勝新太郎

そもそも、勝新太郎がイマイチよく分かっていない。この映画で初めてまともに見た感じがする。ただ、中村玉緒が奥さんな事は知っている。僕等ワイドショーの世代には、まずこれが来てしまう。この人は、まだ結婚する前は本当に綺麗なのだ。誰かが下げチンなんだろうか?

勝は探偵で、自分でも何を追いかけているかわからないほど疲れている。勝とスバルは、似合うとは思えない。勝が、失踪者を探しているようにも見えない。この映画の最大の問題点は、失踪者の顔がない点だ。しかも、一貫して無いかと思えば、後で付け足し見たいに出てくる。

 

○女(依頼人):市原悦子

この依頼人は、真面目な依頼人では無いらしい。何故そう思ったか、いや、勝さんがそう言ったから。この映画は万事がこれである。観客に先回りをかましてくる。こちらの感想を最初から拒否してくる。そして途中から、譲歩してくるので、前半と後半の監督が違う人みたいだ。こういうのをチグハグと言うのだろう。

 

○田代:渥美清 - 失踪人の部下

そして、失踪人の部下、渥美である。結局、全ての人が失踪した脇役に見える。脇役時代に戻った主役見たいである。みんなが主役を辞退しているように見える。

 

○男の妻:中村玉緒

ではこの人はと言うと、奥さんだった元妻か?

って言うか、勝が無理矢理キャストに入れたようにも見える。

 

依頼人実弟大川修

今回印象に残ったのはこの人だけだ。以前、何かのトークショーに出ていた勝が、自分のホモセクシャルに関する考えを説明しているところをたまたま見た。それは、正にこのシーンに似ているのだ。この依頼人実弟ホモセクシャルで、お金持ちに、春を売っているのである。彼は、大川は勝に聞くのだ。「あなたは僕をどう思うか」と。勝は答える。「魅力的だよ」と言う。大川は言う。「だったら、あなたは、僕の液体が飲めるかい?」と言うのである。勝は「それはちょっと」となる。

では、トークショー(徹子の部屋?)はと言うと、勝は、ホモセクシャルの話をする。そして自分は一生懸命想像するが、男性の性器が目の前に来たところで止まってしまう。無理だ。と、誰も彼に強制している訳ではないのに、その説明をして、何故か目が輝いている。

面白い。勝さんと言えば、この印象しかない。それだけ。

 

○と言う訳で、ひどい映画だ。でもこの映画の空虚さこそ、最近のCM映画の特徴である。抵抗を辞めたものが作る、資本家が保証した芸術らしきものである。

 

合掌


 
 
 
 
 
 
 

遠い一本の道 1977年 日本

遠い一本の道 1977年 日本🇯🇵

🍅🍅🍅

 

あらすじ

「昭和50年10月14日の鉄道記念日に、北海道で保線区員として三十年国鉄に勤めてきた滝ノ上市蔵は功績賞をうけるために、妻・里子とともに札幌へむかった。妻と一男一女をかかえた市蔵一家の生活はなかなか楽にならない。“マル生”という名の合理化運動は、多勢の仲間をみすてていった。作業は機械化されてきたが、武骨者の市蔵は素直に適応できなかった。昇進試験にも落ちてばかり。わりきれない気持で記念品の時計を市蔵はうけとる。その夜、娘・由紀がボーイ・フレンドを連れて来る。二人は結婚したいと話すが、市蔵は理由にならない理由で結婚に反対し、里子の用意したささやかな祝宴をめちゃめちゃにした。〜」movie press

 

○所感

こうゆう映画があるのだと思いました。あくまでも、通常の映画の姿で、そこにドキュメンタリーの要素を取り入れている。俳優と実在の人物が混在し、実世界の人々の、労働の、家族の生活の溜息やら悲しみ、喜びが聞こえてくる。こうゆう映画があるのだと思いました。

 

○監督:左幸子

○企画・製作:左幸子

 

○出演

○滝ノ上里子:左幸子

監督でもあり女優でもある。井川の奥さん役である。井川さんが、組合運動にのめり込む中、彼女は最初は家で編物機を使い、(この編物機は、僕の母が良く使っていたのを覚えている。何というのだろうか?現在も使うのだろうか?仕組みが良くわからない。)それから、生命保険の勧誘員になる。これについても嫌な思い出があり、僕は会社に入って熱処理工場に回された頃、生命保険の勧誘員が良く現れて、工場の中に入ってきた。この人たちには、安全に関する想いは全く無く、相手の工場も(つまり僕の工場も)馬鹿にされていたようで、踵の高い靴で何度も現れ、僕から月15000円の契約をもぎ取った。17年入って、結局積み立ての保険かと思ったら、掛け捨ての保険だった。あざとい保険会社である。

正にこんなリアルな話が、目に浮かぶ様に左さんの演技は良い。

 

左さんの代表映画

幕末太陽伝

にっぽん昆虫記

飢餓海峡

 

○滝ノ上市蔵:井川比佐志

井川さんは、時代劇の井川さんが好きだ。鬼平や、水戸黄門の井川さんが好きだった。この人の安定感は見るものにCMを忘れさせる。本来CMとはそうゆうものだ。井川さんは、そうゆう意味では、主役級という役者ではないが、この、実在の人々との演技、ドキュメンタリーは、見事である。こういう映画を、どんどん見て行きたいもんだ。

 

○滝ノ上徹(市蔵・里子の息子):磯村健治

彼は、2人の間に生まれて息子な訳であるが、すでに鉄道の保線を継いで行こうとブレがない。こんな国鉄マンが沢山いるんだろう。そして、合理化の中で、JRの中に散っていった。彼等の純粋な気持ちを誰が裏切っただろう。鉄道は、政治家のオモチャだ。鉄道で散々絞った後は、郵便だったんだろう。合理化ではなく経理化である。偉い人などと言わない様に。仏様は、見ていらっしゃる。

 

○滝ノ上由紀(市蔵・里子の娘):市毛良枝

市毛さんは、ある一時期において、大変な人気の女優であった。こうして見ると、地味な女優であるが、鼻の上あたりに独特の笑顔が隠れている。ああ、これか?という顔だ。

 

○佐多隆(由紀の恋人):長塚京三

この人の田舎に最後に行くのである。ネタバレとは関係のない映画だ。昭和の人々が皆他所を向かず、向く事も出来ず、懸命に頑張って来たその姿の結果がある。それは、新幹線で、全く違う北海道の女性との結婚を💒実現させる

 

端島 (はしま)は、長崎県長崎市(旧:西彼杵郡高島町)にあるである。通称軍艦島(ぐんかんじま)[2]。「羽島」とも書いていた[3]。

明治時代から昭和時代にかけて海底炭鉱によって栄え、日本初の鉄筋コンクリート造の高層集合住宅も建造されるなど、1960年代には東京以上の人口密度を有していた。1974年(昭和49年)の閉山にともなって島民が島を離れてからは、無人島である。

2015年、国際記念物遺跡会議(イコモス)により、端島炭坑を構成遺産に含む「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」ユネスコ世界文化遺産に登録された[4][5]。」Wiki

 

悪い事をした偉いさんも、振り返れば、たまたま偶然そこに生まれた人だと思って許して上げて欲しい。そう思わなければ、何故人は生まれ、生きて行くのか説明出来ないじゃないか?





 
 
 
 
 
 

素晴らしき日曜日  1947年 日本東宝

素晴らしき日曜日  1947年 日本🇯🇵東宝

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あらすじ

「ある日曜日、恋人同士の雄造と昌子は街に出た。所付金は二人合わせて三十五円と寂しいものだったが、仲良く街を歩く。モデルハウスを見学した昌子は、夢見がちになるが雄造が水をさす。それからというもの良い事は起こらず二人はふさぎこむが、最後には気を取り直し、夜の野外音楽堂で二人だけのコンサートを開く……。敗戦直後の風俗を背景に恋人たちのささやかな日常を描いて、爽やかな感動を呼び起こした心暖まる小品。

スクリーンの中から観客に向かって拍手を呼びかける前代未聞のシーンには、黒澤監督の熱い想いが込められており、本作がパリで公開された時には、映画館が熱狂的な拍手的な拍手につつまれたという逸話も残っている。」アマゾン

 

○所感

この映画を見るのは、もしかしたら30年ぶりである。池袋か新橋かの名画座で観たのではないか?何せ日曜日に会う恋人同士が、なんとも言えない貧乏で、靴に穴が空いていたのを覚えている。モデルハウスもよく覚えている。でも、僕にとっては羨ましかった。だって、その時は大学生で彼女も居ない。童貞でもあった。そうゆう清い僕には、この彼女が頑なに守っているものが何か理解出来なかった。その時、誰と見に行ったか思い出せないが、どうせ男である。

そして、30年後の今回。相変わらず日本人女性とは清い間柄だったが、僕は新しい視点から、新しい事が分かった。それは、「素晴らしい日曜日」が描く休日である。就職してから、つくずく思ったのは、充実した休日は中々来ない、或いは掴む事は出来ないものである。その数日前から、休みの日にワクワクし、期待も大きいが、その日になると大体つまらない事が多い。プランがあり、お金があれば尚更だ。ところがたまに、お金も無く、2人の間も何となくギクシャクしているにもかかわらず、或いは、子供がいて、何時もどうりグズグズしてメンバーの足並みが揃わないにも関わらず、「あーなんか良い日曜日だったね」なんて振り返る日があるものだ。この映画の2人が正にそれ。悪い事もあったけれど、極めて充実した人生の1日を過ごしているのだ。こんな時間は、お金を持っていても、家があっても、車があっても中々手に入るものではない。偶然そうなったのか、狙ってそうしたのかはわからない。でも、そうゆう意味での「素晴らしき日曜日」なのだ。だから、有名な最期のシーンは、この映画のあらゆる出会いの一幕に過ぎない。むしろ終わって最後に「素晴らしき日曜日」と題字を読み直す事にこの映画の価値がある。

黒澤明さんは、凄い監督だ。でも、自分の中にある実力以上のものは、偶然に出来たものは、自分が理解していないものという事で排除する事がある。実力のある人故か…

 

○監督:黒澤明 ※クレジット上は「演出」

 



○雄造:沼崎勲

彼は、あの時の僕。貧乏で目標すら無い僕。一番大事なものが、自分の手の中にある事を気付かず、人並みに性欲のある若者。でもいざ、性欲から目を逸らすと、色々なことが見えてくる。気が付けば、「素晴らしい日曜日」でしたと言うお話。

 

○昌子:中北千枝子

何故女性は、貞操を大事にしなくてはならないのか?何故男は女を欲しがり、女は拒むのか?それは、こんな休みの日に手に入れるべき物は、性欲よりも沢山あるからである。部屋でお昼までお互いの体を貪るよりもずっと充実したそれを、彼女は本能的に分かっている。彼女は、彼がそれを自分のために見つけてくれると信じ、ついて行く。

 

○与太者(ダンスホールの浮浪者):渡辺篤ロッパ一座)

○饅頭屋:中村是好エノケン一座)

男女2人が、主要な出演者であるが、この後に書いてあるエノケン、ロッパは何なのか、興味を持った。

 

エノケン・ロッパの時代

エノケンの「動き」の激しさについて、手だけで舞台の幕を駆け上る、走っている車の扉から出て反対の扉からまた入るという芸当が出来たという伝説がある。この人気に目をつけた松竹はエノケン一座を破格の契約金で専属にむかえ、浅草の松竹座で常打ちの喜劇を公演し、下町での地盤を確固たるものとした(ピエル・ブリヤント後期)。一方、常盤興行は、映画雑誌編集者であった古川ロッパ声帯模写などの素人芸に目を付け、トーキーの進出で活躍の場を失っていた活動弁士徳川夢声生駒雷遊らと「笑の王国を旗揚げさせのち松竹に所属、さらに東宝に移籍して有楽座で主に学生などインテリ層をターゲットとしたモダンな喜劇の公演を旗揚げし、「下町のエノケン、丸の内のロッパ」と並び称せられ、軽演劇における人気を二分した。」Wiki

 

 

○もう一度、自分にとって「素晴らしき日曜日」とはなんなのか、考えてみたい。こんな、障害者一級の僕にも「素晴らしき日曜日」はあるのだ。まして、健康な貴方なら…!

 

合掌

 





 
 
 
 
 
 
 
 
 

ウォリアーズ/インポッシブル・ミッション 1996年 イギリス

 

ウォリアーズ/インポッシブル・ミッション 1996年 イギリス🇬🇧

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あらすじ

ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争(ボスニア ヘルツェゴビナふんそう、セルビア・クロアチア語:Рат у Босни и Херцеговини/Rat u Bosni i Hercegovini)は、ユーゴスラビアから独立したボスニア・ヘルツェゴビナ1992年から1995年まで続いた内戦ボスニア紛争[1](: Bosnian War)ともいう。」Wiki

いいあらすじが見つからなくて、実際の戦争を参考にレビューを行う。

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○所感

この戦争に準じた映画、ドキュメンタリー、今回のようなTV映画は非常に沢山ある。でもイマイチ何が問題かさっぱりわからないので、今日は勉強も兼ねてレビューする。(なるべく簡単に)

でも、この映画はしっかりした映画だ。この国の平和維持活動に送られたイギリスの国連🇺🇳部隊の視点から、この紛争を見ている。

 

○何が分かりずらいか?

僕にとって最も分かりづらいのは、人種間、民族間の対立に見えないこと。敵も味方も、昨日まで同じユーゴスラビアと言う国の国民だった事である。そのユーゴスラビアが、1991年、崩壊した。これをユーゴスラビア紛争と言う。ユーゴスラビアとは第一次世界大戦以降、オーストリア=ハンガリー帝国が解体されて出来た国で、それ以来ユーゴスラビアとして、共産圏の東ヨーロッパの一員として、この国をまとめて来た。

 

○1992年、このユーゴスラビアの解体の動きの中で、ボスニア・ヘルツェゴビナが独立を宣言する。

「当時、同国には約430万人が住んでいたが、そのうち44%がボシュニャク人ムスリム人)、33%がセルビア人、17%がロアチア人と異なる民族が混在していた。」Wiki

この〜人、〜人が我々には全く区別が付かないし、日本人のというか、アジア人の欧米人コンプレックスから言えば、ここまで人間扱いされない欧米人を見た事が無い。特にこのセルビア人は激しい。セルビア人と言えば、第一次世界大戦の時、戦争のきっかけになった民族と記憶している。この地域をヨーロッパの火薬庫と言われた時もあったのだ。

 

ボシュニャク人とクロアチア人が独立を推進したのに対し、セルビア人はこれに反対し分離を目指したため、両者間の対立はしだいに深刻化。独立宣言の翌月には軍事衝突に発展した。」Wiki

 

「およそ3年半以上にわたり全土で戦闘が繰り広げられた結果、死者20万、難民・避難民200万が発生したほか、ボシュニャク人女性に対するレイプや強制出産などが行われ、第二次世界大戦後のヨーロッパで最悪の紛争となった。」Wiki

 

この時点で、人間が一年に殺される半数をここで殺してしまった。

この地域に関わる民族は、皆何らかの虐殺行為を行い、また受けているのだ。だから、何が悪いからこれを排除しようと言う処方箋が無い。ユーゴスラビアは、「奇跡的にこれを纏めた理想?」の国だったのだ。

我々から見れば、「殺し合いの好きな民族」としか見えないが、それ以上の精神的な理由があるのだろうか?

 

終結

「戦闘は、ボスニア・ヘルツェゴビナではなく、隣接するクロアチア国内のセルビア人居住区で行われた。セルビア人勢力の攻勢に対し、NATOは5月から7月にかけてセルビア人勢力の拠点を攻撃することで対抗した。また、セルビア人勢力による人質作戦への対応のため、NATOは国連保護軍の保護を目的とする緊急対応部隊を設立した。」Wiki

 

○出演者

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一人一人が、戦争に従軍した俳優みたいで、誰も目立ったヒーローは居ないし、あり得ない。こんな映画があっても良いだろう。

 

○この映画では、以上の要因からこの地に来たNATO軍を描いている。彼らは、あらゆる矛盾と遭遇する。彼らの任務はあくまで、怪我をした人の救出であって、まだ健康な人の救出ではない。死体すら危険な所である。それは、女性も子供も老人も含んでいる。彼らは若さゆえ、何度も脱線しそうになり脱線する。もし、UNの本分に逆らえばそれは、民族浄化を手助けする事になる。この言葉が何度も登場する。そして、このUN、NATO軍こそが、矛盾した存在で、しかし、この戦争には不可欠で、この戦争を最も知っている人々だと言う皮肉に辿り着くのである。我々には東京と大阪が民族浄化を行う事になったと言うSFすら考えるに及ばない。民族をどうやって見分けるのかの想像が付かない。そんな事を想像出来るのはオウム真理教ぐらいか?

 

民族浄化

ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争は、各交戦勢力が各々の民族の勢力圏を拡大することを目的としており、「陣取り合戦」の様相を呈していた。このような中で、支配地域から不安要因を取り除く目的で、自勢力の支配下に住む異民族を排除し、勢力圏を民族的に単一にするための民族浄化が行われた。」Wiki

 

合掌





 
 
 
 

トイレの花子さん 1995年 日本松竹

 

トイレの花子さん 1995年 日本🇯🇵松竹

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あらすじ

「日本全国の子どもたちが夢中になって噂した怪談の数々、“トイレの花子さん”などを下敷きとし、小学生たちが体験する恐怖との戦いと成長を描いた家族向けのスリリング編。

本町小学校の周辺で、小学生を狙った連続殺人事件が発生。同校に通う拓也のクラスで、生徒たちは自分も襲われないかと不安になる。そんな折、転校してきたばかりの美少女・冴子は人気者になったが、一転して殺人犯である幽霊“トイレの花子さん”だと噂されるように。彼女をかばう拓也だったが、冴子が疑われるような事態が発生。ある夜、拓は噂の真相を確かめようと深夜の校舎へ。そこで冴子と出くわし、意外な事実を知るが……。」Wiki

 

○所感

学校の怪談は、何故か子供の興奮を誘う。そこが、他の場所では駄目なのだ。学校か生徒が集まるところで、みんなが知っている人が、特に生徒が目撃者でなくてはならない。「学校のどこで」と具体的に場所を指定された方が良いし、出来れば目撃時間は、みんなが帰った後の校舎だとなお良い。どうもこの映画はそう言った重要な要件を満たしていない気がする。そもそも、転校生と言うのは面白く無い。アメリカ映画みたいだ。幽霊とは関係ない、うざったい大人の世界の臭いがする。それがトマト1の理由だ。

 

○監督:松岡錠司

 

○主演

 

○坂本なつみ:前田愛

僕から見ると彼女が主役。ショートカットのボーイッシュな少女。非常に良い雰囲気を出している。と思ったら、中村勘九郎の奥さん?なんか、ガクン。この人は芸能一家だね。

 

坂本拓也:井上孝幸

この子役は、元俳優と出てきた。この子の演技が駄目だ。転校生の河野に対して、曖昧な態度をとるのだが、それが演技か自かわからない。前髪が顔を隠しすぎて妹と変わらない。表情も豊かさが無く、駄目だ。

 

○水野冴子:河野由佳

女子が、この時期男子より体格が大きくなる場合が良くあり、この子は周りより大きい。だが、昨日今日来た彼女は外部者で、これでは学校の幽霊の関連者として弱い。だから、この3人の子供は重要なのだ。栗山千明は、いい女優なので彼女が入った方が良かった。謎めいた表情だし。

 

○坂本雄二:豊川悦司

この人は、良い俳優だが、変装して分からない様にこの映画のメンバーに混じっているみたいだ。駄目だ。そもそも、幽霊学園の恐怖とは、戦う物ではないのだ。事実を知る必要も無い。ただひたすら怖がる事が要求される。そして、来年入った子に引き継がれる。それが幽霊学園だ。

 

○僕の幽霊学園①

小学校の時、臨海学校があってここに泉ちゃんという幽霊が出るらしかった。小学校4年から小学校6年だ。あの臨海学校は、千葉の富浦にあって、そこで遠泳をしたのだ。中学の時もあったので、最長で2時間の大遠泳だった。「泉ちゃん」という霊が出るとあって、本当に怖かった。そもそも、この遠泳は怖かった。みんなで100名、200名、ずっと列になって海の上を見えたり消えたり、最初の頃は、こんな行事の存在さえ怖すぎる。そして、その夜、ホッとしたのも束の間「泉ちゃん」である。実は内容をあまりよく覚えていない?

○僕の幽霊学園②

小学校の時、火事があった。その日は何故か僕と僕の仲間は学校に遅くまでいて、雨の日だったので、傘で円陣を囲んで幽霊話を順番にやっていた。すると校舎の2階で火事が起きた。部屋の後ろの図工用紙が燃やされて犯人は逃げた。僕らは、先生から取り調べを受けたが、僕らが知ろう訳もない。事件はそのまま迷宮入りになったが、ある日先生が僕らを呼び付け言った言葉が忘れられない。「お前たち、本当に何も見なかったのか?実はあの日、あの夕方、先生の所に人が訪ねて来たんだ。○○さんという先生も知らない人で、学校にかなり強引に入って来て、その後居なくなったんだ。」それを聞いた時の恐ろしさと言ったら…背中から水を被せられた様に汗が💦吹き出し、幽霊怪談どころでは無かった。

 

以下は、民間信仰

 

「日本では江戸時代から昭和初期にかけて厠神(トイレのの信仰が盛んで、赤や白の女子の人形や、美しい花飾りを便所に供えることで厠神が祀られていた。戦後において厠神の信仰が廃れた後も、トイレに造花が飾られていることが多いのは、こうした風習の名残とみられている。トイレの花子さんの服が赤や白であること、名前が「花子」であるのは、こういった風習に由来するとの説もある[2]。」Wiki

 

幽霊と言って、

幽霊で無いものを見せない様に。

幽霊は見えなくてこそ幽霊だから。