migihanshin’s blog

半身不随だけれど 明るく しぶとく 生きていこう!

羅生門 1950年 日本

羅生門 1950年 日本🇯🇵

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あらすじ

平安時代京の都羅生門[注釈 1]で3人の男たちが雨宿りしていた。そのうちの2人、杣売り(そまうり、焚き木の販売業者)と旅法師はある事件の参考人として出頭した検非違使からの帰途だった。実に奇妙な話を見聞きしたと、もう1人の下人に語り始める。

3日前、薪を取りに山に分け入った杣売りは、武士・金沢武弘の死体を発見し、検非違使に届け出る。そして今日、取り調べの場に出廷した杣売りは、当時の状況を思い出しながら、遺体のそばに市女笠、踏みにじられた侍烏帽子、切られた縄、そして赤地織の守袋が落ちており、そこにあるはずの金沢の太刀、女性用の短刀は見当たらなかったと証言する。また、道中で金沢と会った旅法師も出廷し、金沢は妻の真砂と一緒に行動していたと証言する。」Wiki

 

「同じ出来事を複数の登場人物の視点から描く手法は、本作により映画の物語手法の1つとなり、国内外の映画で何度も用いられた[1]。海外では羅生門効果などの学術用語も成立した[1]」Wiki

 

所感

今回で、5回くらい見るこの映画。黒澤の映画の最大のポイントである、ヒューマニズムがどちらかと言うと元々弱い映画である。でもまあ、こんな映画を良く考えたもんだなと思う。それだけに、あの荒んだ羅生門で最後に彼等が見つけたものが、ちょっと唐突過ぎるのだ。

 

「よくてらって人間を信じないと云うけれど、人間を信じなくては生きてゆけませんよ。そこをぼくは『羅生門で云いたかったんだ。つきはなすのは嘘ですよ。文学的にあまいというけれど、それが正直ですね。人間が信じられなくては、死んでゆくより仕方がないんじゃないかしら…。

— 黒澤明淀川長治「人間を信ずるのが一番大切なこと」」Wiki

 

この姿勢が、一貫して居なくては、この後の黒澤作品がなかった。人間は突き放すと何をしでかすか知れない、この視点が、黒澤には一貫しているのだ。むしろ、この映画のヒューマニズムは弱い

 

○多襄丸:三船敏郎

彼は、(彼の盗賊としての本分から言えば)本来であれば金沢武弘を打ち倒し、真砂を完全に支配して、うまくいけば、真砂の心まで奪う事が出来た筈だ。ところが、結果として本人は、検非違使に突き出され、彼の思い通りになったものは、嘘か本当か分からぬ真砂の貞淑と金沢武弘に対する勝利と言う話である。そしてこの男は見るからに嘘の塊のような男。

 

○金沢武弘:森雅之

彼は、この3人の中では、たった一人、既に命が無い人である。これこそが、この映画を世界に知らしめる故であり、しかも決して映画の主題では無い。当たり前のように語られる事実である。欧米の映画なら、この幽霊で一作出来てしまうのではないか?そして驚くべきは、この幽霊は、幽霊にして真実を知らない事である。人間は、嘘から逃れ、死んでも真実を知る事が出来ないと言う事である。あるいは、この巫女が本物出なくて、嘘をついている点も否定出来ない。

 

○真砂:京マチ子

そして分かるのは、幽霊より遥かに怖いものである。冗談ではなく、女性は怖い。自分が生き延びる事に正解があるため、何でもやれるのが女性だ。そこに、理屈は無い。

私の知る限り女性は、初産の呼吸の荒いなか、初産の子でありながら「あなたの子よ」と言って相手を欺いた。目の前で産道から取り出して見せた。生まれてきた子と、父ではない男を平然と記念写真を撮らせ、僕はその写真を持っている。それを筆頭に、この手の話にこの25年の間騙されて来た。残念ながらこの点においては、僕の経験が、黒澤明を上回っている。ヒューマニズムなど糞食らえと言う国の人々がいる。残念なことに、仏教徒だと言う。

 

「人間は、自分自身について、正直な事は云えない。虚飾なしには、自分について、話せない。この脚本は、そういう人間というもの、虚飾なしには生きていけない人間というものを描いているのだ。いや、死んでも、そういう虚飾を捨てきれない人間の罪の深さを描いているのだ。これは、人間の持って生れた罪業、人間の度し難い性質、利己心が繰り広げる奇怪な絵巻なのだ。

— 黒澤明『蝦蟇の油』」

 

「人間は以下の入力出来る全ての嘘を行使することが出来る。

①嘘を意識的に行う、言う、思う。

嘘を悪意を持って意識的に行う、言う、思う。

嘘を善意から意識的に行う、言う、思う。

②無意識に行う、言う、思う。

嘘を悪意を持って無意識に行う、言う、思う。

嘘を善意から無意識に行う、言う、思う。

③嘘を方便と思い善意から行う、言う、思う。

④嘘を方便と思い悪意から行う、言う、思う。

⑤複合的である。

⑥自分自身に行う、言う、思う。」

「人は国の名前なら、いくらでも嘘がつける。

しかもあたかも正しい事をしている仏様の方便と混同して」

by右半身

 

○旅法師:千秋実

○杣売り:志村喬

この2人が、もし僕が見たものを見たらどうであろう。そして、最後のシーンは正にいっしょじゃあないか?羅生門は、未だに健在である。

 

○最後に、日本の映画はかつてこれほどレベルが高かったんだと言う事。CMと映画は別物だったと言う事。お笑いと映画は別物だったと言う事。

「日本映画を一番軽蔑してたのは日本人だった。その日本映画を外国に出してくれたのは外国人だった。これは反省する必要はないか。浮世絵だって外国へ出るまではほんとに市井の絵にすぎなかったよね。われわれ、自分にしても自分のものにしても、すべて卑下して考えすぎるところがあるんじゃないかな? 『羅生門』も僕はそう立派な作品だとは思っていません。だけどあれはマグレ当りだなんて言われると、どうしてすぐそう卑屈な考え方をしなきゃならないんだって気がするね。」Wiki

 

ですので、羅生門は3トマト🍅🍅🍅である。でも、背景のレベルの高さを考えると後ろめたいので、+🍅

 

合掌