migihanshin’s blog

半身不随だけれど 明るく しぶとく 生きていこう!

オアシス 2002年 韓国

 

オアシス 2002年 韓国🇰🇷

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あらすじ

「9歳の青年ホン・ジョンドゥは、ひき逃げによる過失致死で2年6か月の刑期を終えて出所した。入所したときの半袖シャツのまま、母の服を買って実家に帰ろうとしたが、家族は引越しをしてしまい、居場所も分からなかった。飲食店で無銭飲食をして警察に捕まった彼の元へ、ようやく弟のジョンセが迎えに来て、ジョンセの運転する車で新しい家へと向かい、家族と再会する。しかし、社会不適応者である彼に対し、家族は暖かい対応をしない。

2日後、挨拶しようとひき逃げ事故の被害者宅を訪ねたジョンドゥだったが、引越しの最中であった被害者の息子夫婦は怒って彼を追い返す。息子らは脳性麻痺である妹のハン・コンジュを置いて出て行ってしまい、ジョンドゥは残されたコンジュを再び訪ね、果物の入ったバスケットを置いて帰る。ジョンドゥは兄であるジョンイルの口利きで得た中華料理店の配達の帰り、遅くなって店を締められてしまい、そのまま配達用のオートバイでソウル郊外にあるコンジュのアパートに向かうが、訪ねずにそのまま帰ってくる。そして帰り道で転倒し、交通事故を起こしてしまう。兄からは諭され、兄嫁からははっきり邪魔者だと告げられる。」Wiki

ネタバレについては、途中3割で止めてある。よく考えて見ると内容の濃い映画である。

 

○監督 イ・チャンドン 

 

○出演 ソル・ギョング, ムン・ソリ, アン・ネサン

 

○露骨な描写、しかし後味の良いロマンス。当人たちが傷つかなければ、一寸でも希望があれば、ロマンスとして成り立つのだという真理。

 

○最後までみたか?

韓国映画で最も感動した映画のひとつです。最後までみました。

 

○ビックリしたか?驚いたか?

全く先入観なく、前情報なく、この映画を見れば、後で驚くことだらけでしょう。びっくりしました。

 

○特筆すべき男優、女優はいたか?どのように?

この映画を最初に見た時は、ソルギョングは只の朝鮮人の兄ちゃんだったし、ムン ソリは韓国の地味な脳性麻痺を持った女性でした。こうした先入観なく見た後で、色々と韓国映画を知るにつれ、じわじわと感動するのも一考です。韓国の俳優でソルギョングは、今一番好きな俳優です。

この俳優はカメレオン俳優とよく紹介されているが、それは恐らく役作りにおいて潔癖な人なのだと思います。ですので、映画のタイトルのカバーの写真だけで、ああこれがソルギョングが出ているのか?とは分からない。それくらい映画毎に顔形、風体が違います。

 

○もう一度みたいか?

2度見ました。

 

○一緒に見て困る人はいるか?

一人で見た方が、気を使わなくていいと思います。あと、もしいい映画だと思っても人に激しく推奨しないことです。理解できない人もいるでしょう。障害を描く映画と言うのは、とにかくこちらが恐縮してしまうようなことばかりで、見終わった後に口では(元気をもらいました)とかいいながら、心の中では憂鬱になってしまう場合が多い。ところがこの映画の手法だとそれが起きない。むしろ、純粋に発達障害とか、脳性麻痺といった人とそれをとりまく環境を、ドライに描くことが出来たようです。

ただ、人によっては、この手法に怒りを感じる人もあるかもしれない。

 

○印象に残るシーン

①ソルギョングの鼻水。刑を終えて釈放され、夏服で寒い韓国の町中を徘徊する。この飄々として、物事にこだわらない、しかし、サービス精神旺盛で、目標をもったら、周りの目を気にせず突っ走る、だから周りに嫌がられるのでしょう。

②ムン ソリの障害。一体、障害をもった人が、人と同じことをするのにどれだけ苦労しているか?ソルギョングは内面に障害を抱えており、ムンソリは外面に障害を抱えているわけです。見たところ、ムンソリは内面的には正常に見えました。だから、正常者のように振る舞うことを常にイメージするのでしょう。またオアシスの絵にかかる枝は彼女の小さな日常に影を落としています。

→本当にこう思っていた。

③家族兄弟が障害者であるムンソリへの国からの支援で、いい家に住み、障害者のムンソリを古い汚いアパートに一人で住まわせて、本人の幸せなど顧みないが、どこか後ろめたく振る舞う事。

④ソルギョングの兄は、ムンソリの親を車で引いて死なせたが、前科のあるソルギョングが身代わりになって罪に服役し、ところが帰ってきても家族の誰からも歓迎されず、むしろ厄介者扱いされること。しかもそうして助けた兄に再三再四ダメ人間呼ばわりされ、説教されること。

⑤最初の出会いにおいては、恐らくソルギョングは五蘊の健全さからムンソリに懸想したと思われるが、ムンソリの内面が自分よりしっかりしていることに気が付き、尊敬の念から愛情を覚えるようになったこと。

⑥最後のシーン。

 

○仏教的にはどうか?

ソルギョングの役には性格的なものか、葛藤はなく、どんな状況でものほほんと暮らせていけるようである。一方、ムンソリはかなり深い内面世界をもっており、その世界においてお姫様(コンジュ)なのだろう。

ソルギョングはすでに解脱、得心した状況にあるのではないか?それが周りにいる気の小さな罪人にはうっとうしくて仕方がないのかもしれません。

神父が何度か出てくるが、ソルギョング自体の宗教観は希薄であった。

 

○再見☝︎ネタバレ注意

この映画については、僕の韓国映画を好きにさせた映画であると同時に、「障害者じゃない人が障害者を演じる>僕は支持する」のライフワークとして生きたいと思う。このレビューをした時は、まだ韓国映画と言うものが分かっておらず、ムンソリが本物の障害者だと思っていた。そして、その時は自分も障害者では無かった。健常者が、根本的に障害者を軽んじている点(というか軽んじざるを得ないだろう)を、実に正確に捉えている映画で、僕がムンソリ(韓国の大女優)を、完全なる障害者と思っている時点で、この映画の勝利である。そして障害者の恋愛を真正面から捉えている時点で、後から知った点で脱帽だ。この時は、ソルギョングも知らなかったのだ。いずれこの日本には無いタイプの素晴らしい映画を、エッセイに再レビューしたい。韓国映画はこうでなくてはいけない。

 

合掌






 
 
 
 
 
 

羅生門 1950年 日本

羅生門 1950年 日本🇯🇵

🍅🍅🍅🍅

 

あらすじ

平安時代京の都羅生門[注釈 1]で3人の男たちが雨宿りしていた。そのうちの2人、杣売り(そまうり、焚き木の販売業者)と旅法師はある事件の参考人として出頭した検非違使からの帰途だった。実に奇妙な話を見聞きしたと、もう1人の下人に語り始める。

3日前、薪を取りに山に分け入った杣売りは、武士・金沢武弘の死体を発見し、検非違使に届け出る。そして今日、取り調べの場に出廷した杣売りは、当時の状況を思い出しながら、遺体のそばに市女笠、踏みにじられた侍烏帽子、切られた縄、そして赤地織の守袋が落ちており、そこにあるはずの金沢の太刀、女性用の短刀は見当たらなかったと証言する。また、道中で金沢と会った旅法師も出廷し、金沢は妻の真砂と一緒に行動していたと証言する。」Wiki

 

「同じ出来事を複数の登場人物の視点から描く手法は、本作により映画の物語手法の1つとなり、国内外の映画で何度も用いられた[1]。海外では羅生門効果などの学術用語も成立した[1]」Wiki

 

所感

今回で、5回くらい見るこの映画。黒澤の映画の最大のポイントである、ヒューマニズムがどちらかと言うと元々弱い映画である。でもまあ、こんな映画を良く考えたもんだなと思う。それだけに、あの荒んだ羅生門で最後に彼等が見つけたものが、ちょっと唐突過ぎるのだ。

 

「よくてらって人間を信じないと云うけれど、人間を信じなくては生きてゆけませんよ。そこをぼくは『羅生門で云いたかったんだ。つきはなすのは嘘ですよ。文学的にあまいというけれど、それが正直ですね。人間が信じられなくては、死んでゆくより仕方がないんじゃないかしら…。

— 黒澤明淀川長治「人間を信ずるのが一番大切なこと」」Wiki

 

この姿勢が、一貫して居なくては、この後の黒澤作品がなかった。人間は突き放すと何をしでかすか知れない、この視点が、黒澤には一貫しているのだ。むしろ、この映画のヒューマニズムは弱い

 

○多襄丸:三船敏郎

彼は、(彼の盗賊としての本分から言えば)本来であれば金沢武弘を打ち倒し、真砂を完全に支配して、うまくいけば、真砂の心まで奪う事が出来た筈だ。ところが、結果として本人は、検非違使に突き出され、彼の思い通りになったものは、嘘か本当か分からぬ真砂の貞淑と金沢武弘に対する勝利と言う話である。そしてこの男は見るからに嘘の塊のような男。

 

○金沢武弘:森雅之

彼は、この3人の中では、たった一人、既に命が無い人である。これこそが、この映画を世界に知らしめる故であり、しかも決して映画の主題では無い。当たり前のように語られる事実である。欧米の映画なら、この幽霊で一作出来てしまうのではないか?そして驚くべきは、この幽霊は、幽霊にして真実を知らない事である。人間は、嘘から逃れ、死んでも真実を知る事が出来ないと言う事である。あるいは、この巫女が本物出なくて、嘘をついている点も否定出来ない。

 

○真砂:京マチ子

そして分かるのは、幽霊より遥かに怖いものである。冗談ではなく、女性は怖い。自分が生き延びる事に正解があるため、何でもやれるのが女性だ。そこに、理屈は無い。

私の知る限り女性は、初産の呼吸の荒いなか、初産の子でありながら「あなたの子よ」と言って相手を欺いた。目の前で産道から取り出して見せた。生まれてきた子と、父ではない男を平然と記念写真を撮らせ、僕はその写真を持っている。それを筆頭に、この手の話にこの25年の間騙されて来た。残念ながらこの点においては、僕の経験が、黒澤明を上回っている。ヒューマニズムなど糞食らえと言う国の人々がいる。残念なことに、仏教徒だと言う。

 

「人間は、自分自身について、正直な事は云えない。虚飾なしには、自分について、話せない。この脚本は、そういう人間というもの、虚飾なしには生きていけない人間というものを描いているのだ。いや、死んでも、そういう虚飾を捨てきれない人間の罪の深さを描いているのだ。これは、人間の持って生れた罪業、人間の度し難い性質、利己心が繰り広げる奇怪な絵巻なのだ。

— 黒澤明『蝦蟇の油』」

 

「人間は以下の入力出来る全ての嘘を行使することが出来る。

①嘘を意識的に行う、言う、思う。

嘘を悪意を持って意識的に行う、言う、思う。

嘘を善意から意識的に行う、言う、思う。

②無意識に行う、言う、思う。

嘘を悪意を持って無意識に行う、言う、思う。

嘘を善意から無意識に行う、言う、思う。

③嘘を方便と思い善意から行う、言う、思う。

④嘘を方便と思い悪意から行う、言う、思う。

⑤複合的である。

⑥自分自身に行う、言う、思う。」

「人は国の名前なら、いくらでも嘘がつける。

しかもあたかも正しい事をしている仏様の方便と混同して」

by右半身

 

○旅法師:千秋実

○杣売り:志村喬

この2人が、もし僕が見たものを見たらどうであろう。そして、最後のシーンは正にいっしょじゃあないか?羅生門は、未だに健在である。

 

○最後に、日本の映画はかつてこれほどレベルが高かったんだと言う事。CMと映画は別物だったと言う事。お笑いと映画は別物だったと言う事。

「日本映画を一番軽蔑してたのは日本人だった。その日本映画を外国に出してくれたのは外国人だった。これは反省する必要はないか。浮世絵だって外国へ出るまではほんとに市井の絵にすぎなかったよね。われわれ、自分にしても自分のものにしても、すべて卑下して考えすぎるところがあるんじゃないかな? 『羅生門』も僕はそう立派な作品だとは思っていません。だけどあれはマグレ当りだなんて言われると、どうしてすぐそう卑屈な考え方をしなきゃならないんだって気がするね。」Wiki

 

ですので、羅生門は3トマト🍅🍅🍅である。でも、背景のレベルの高さを考えると後ろめたいので、+🍅

 

合掌




 
 
 
 
 
 

燃え尽きた地図 1968年 日本

燃え尽きた地図 1968年 日本🇯🇵

🍅

 

あらすじ

「男は妻を別居し、最も職業らしくない職業という理由で興信所の調査員になった。間もなく男は、ある女から失踪した夫の行方動向の調査を依頼された。しかし、女は夫を探すのには熱心ではなく男に協力的でなかった。男はまず失踪者が残していった運転手募集広告、喫茶店「つばき」の電話番号を手掛りに調査を始めた。しかし、いずれもはかばかしくなく、何の結果も得られなかった。そんな時、男は女の弟と名乗るやくざ風の男に会った。弟は失踪者の日記を見せるといって姿を消した。やがて失踪者の会社を訪ねた男は、失踪者の部下田代から、失踪者にヌード写真の趣味があったこと、失踪自体が半信半疑だと聞いた。男はそれが小心者の嘘だと思った。男は弟に会ったが河原に連れて来られ、そこで、やくざの乱闘に巻き込まれてしまった。この事件で弟は殺され、男も興信所から解雇されてしまった。〜〜〜」Wiki

 

所感

○最高につまらない映画。勅使河原宏監督、安部公房原作脚本、と言う意味では、「他人の顔」と同じなのだが、ここまでつまらなくなる物かと、唖然とした。「他人の顔」が失踪物と言うらしいが、これも一緒。失踪した夫の捜索を依頼された勝新太郎は、目が踊っている。実験と言う要素すら感じない。時間の浪費シリーズである。

 

○監督:勅使河原宏

 

○原作・脚本:安部公房

○男(探偵):勝新太郎

そもそも、勝新太郎がイマイチよく分かっていない。この映画で初めてまともに見た感じがする。ただ、中村玉緒が奥さんな事は知っている。僕等ワイドショーの世代には、まずこれが来てしまう。この人は、まだ結婚する前は本当に綺麗なのだ。誰かが下げチンなんだろうか?

勝は探偵で、自分でも何を追いかけているかわからないほど疲れている。勝とスバルは、似合うとは思えない。勝が、失踪者を探しているようにも見えない。この映画の最大の問題点は、失踪者の顔がない点だ。しかも、一貫して無いかと思えば、後で付け足し見たいに出てくる。

 

○女(依頼人):市原悦子

この依頼人は、真面目な依頼人では無いらしい。何故そう思ったか、いや、勝さんがそう言ったから。この映画は万事がこれである。観客に先回りをかましてくる。こちらの感想を最初から拒否してくる。そして途中から、譲歩してくるので、前半と後半の監督が違う人みたいだ。こういうのをチグハグと言うのだろう。

 

○田代:渥美清 - 失踪人の部下

そして、失踪人の部下、渥美である。結局、全ての人が失踪した脇役に見える。脇役時代に戻った主役見たいである。みんなが主役を辞退しているように見える。

 

○男の妻:中村玉緒

ではこの人はと言うと、奥さんだった元妻か?

って言うか、勝が無理矢理キャストに入れたようにも見える。

 

依頼人実弟大川修

今回印象に残ったのはこの人だけだ。以前、何かのトークショーに出ていた勝が、自分のホモセクシャルに関する考えを説明しているところをたまたま見た。それは、正にこのシーンに似ているのだ。この依頼人実弟ホモセクシャルで、お金持ちに、春を売っているのである。彼は、大川は勝に聞くのだ。「あなたは僕をどう思うか」と。勝は答える。「魅力的だよ」と言う。大川は言う。「だったら、あなたは、僕の液体が飲めるかい?」と言うのである。勝は「それはちょっと」となる。

では、トークショー(徹子の部屋?)はと言うと、勝は、ホモセクシャルの話をする。そして自分は一生懸命想像するが、男性の性器が目の前に来たところで止まってしまう。無理だ。と、誰も彼に強制している訳ではないのに、その説明をして、何故か目が輝いている。

面白い。勝さんと言えば、この印象しかない。それだけ。

 

○と言う訳で、ひどい映画だ。でもこの映画の空虚さこそ、最近のCM映画の特徴である。抵抗を辞めたものが作る、資本家が保証した芸術らしきものである。

 

合掌


 
 
 
 
 
 
 

茶の味 2004年日本

茶の味 2004年日本🇯🇵

🍅🍅

 

あらすじ

「山間の小さな町に暮らす春野家の人々。彼らは、それぞれ悩みを抱え悶々としていた。内気な高校生の長男・一は恋に悩み、妹の幸子は時折ふと現われる巨大な自分の分身に困惑している。催眠治療士の父・ノブオは、アニメーターに復帰しようと奮闘中の妻・美子に不満だった。」google

 

○原作・脚本・監督・編集 - 石井克人

 

○所感

途中まで面白い。そうゆう映画だ。ハジメとサチコと言う2人の子供、これに、アヤノと言うおじさん?(何故か苗字と名前が一緒)が絡むところは、面白かった。逆上がり、ウンコ、失恋、いい感じだった。特にウンコネタは好きだ。寺島も良かった。ところが、母方なんだろうか?轟側でしくじった。何でそこでマスコミとか、業界を絡める?それが無いと不安ないんか?お前らの友達内輪ネタなんか面白くないんじゃとなる。どうゆう監督なのかなと調べたら、凄い実績の監督である。CMで…。成る程、それで、1つ1つ、輝く場面があるのでしょう。で映画も撮りたくなったわけだ。僕は本当に悲しい。日本の映画は今やCMの片手間作品なのだ。

 

○春野ノブオ - 三浦友和 父 催眠治療師

三浦さん、結局のところ、この人は不思議な俳優だ。

何でもこなし、それだけだ。こんな田舎で催眠治療師って何だ?この2人の子供の親にすら見えない。

 

○春野美子 - 手塚理美 母 

手塚理美も一緒。仕事を選ばないんだろうなと思う。無難なところで最小公倍数である。僕は嫌な奴だ。この田舎でアニメーターに復帰しようとしている母。と言うことは、その血統で、エンターテイナーのおじいちゃん、漫画家の弟と繋がるのかしら。

 

○春野一 - 佐藤貴広 長男/息子

この子は、良かった。主役はこの兄妹と叔父さんだけで良かった。全てのエピソードが脇役なのである。「誰それが、情熱を持って〜をしたいんだ。」がこの映画はない。その癖、ユーモアもペーソスも無い。だって、CMだもんとなる。いや、CMの方がむしろユーモアもペーソスもある。

 

○春野幸子 - 坂野真弥 末っ子の娘

結局、この子の逆上がりがメインテーマだったのかとなる。それでもいいが、この子は日本人離れしているが何故か?帰国子女?

 

○轟木アキラ - 我修院達也 「おじいちゃん」

モノマネの人だよね?

 

○春野アヤノ - 浅野忠信 ノブオの弟

この人のウンコのエピソードは、良い。全員が、映画のメインストーリーを持たず、1人1人のエピソードの中にいる。だから、こんな評価しか出来ない。でも、ウンコのシーンは良い。その後は、お決まりの業界人ネタにげんなり。

 

○轟木一騎 - 轟木一騎 母の弟 漫画家

最悪。

 

○鈴石アオイ - 土屋アンナ

ハジメの初恋の役の次恋の役。

 

○全ての出演者が、全ての出番をある程度均等に持っている心配り映画。つまり、問題は、CM業界の心配り映画と言うことである。これでいいのqか?良い人だらけの気遣い日本🇯🇵。げんなり。


 
 
 
 
 
 
 

遠い一本の道 1977年 日本

遠い一本の道 1977年 日本🇯🇵

🍅🍅🍅

 

あらすじ

「昭和50年10月14日の鉄道記念日に、北海道で保線区員として三十年国鉄に勤めてきた滝ノ上市蔵は功績賞をうけるために、妻・里子とともに札幌へむかった。妻と一男一女をかかえた市蔵一家の生活はなかなか楽にならない。“マル生”という名の合理化運動は、多勢の仲間をみすてていった。作業は機械化されてきたが、武骨者の市蔵は素直に適応できなかった。昇進試験にも落ちてばかり。わりきれない気持で記念品の時計を市蔵はうけとる。その夜、娘・由紀がボーイ・フレンドを連れて来る。二人は結婚したいと話すが、市蔵は理由にならない理由で結婚に反対し、里子の用意したささやかな祝宴をめちゃめちゃにした。〜」movie press

 

○所感

こうゆう映画があるのだと思いました。あくまでも、通常の映画の姿で、そこにドキュメンタリーの要素を取り入れている。俳優と実在の人物が混在し、実世界の人々の、労働の、家族の生活の溜息やら悲しみ、喜びが聞こえてくる。こうゆう映画があるのだと思いました。

 

○監督:左幸子

○企画・製作:左幸子

 

○出演

○滝ノ上里子:左幸子

監督でもあり女優でもある。井川の奥さん役である。井川さんが、組合運動にのめり込む中、彼女は最初は家で編物機を使い、(この編物機は、僕の母が良く使っていたのを覚えている。何というのだろうか?現在も使うのだろうか?仕組みが良くわからない。)それから、生命保険の勧誘員になる。これについても嫌な思い出があり、僕は会社に入って熱処理工場に回された頃、生命保険の勧誘員が良く現れて、工場の中に入ってきた。この人たちには、安全に関する想いは全く無く、相手の工場も(つまり僕の工場も)馬鹿にされていたようで、踵の高い靴で何度も現れ、僕から月15000円の契約をもぎ取った。17年入って、結局積み立ての保険かと思ったら、掛け捨ての保険だった。あざとい保険会社である。

正にこんなリアルな話が、目に浮かぶ様に左さんの演技は良い。

 

左さんの代表映画

幕末太陽伝

にっぽん昆虫記

飢餓海峡

 

○滝ノ上市蔵:井川比佐志

井川さんは、時代劇の井川さんが好きだ。鬼平や、水戸黄門の井川さんが好きだった。この人の安定感は見るものにCMを忘れさせる。本来CMとはそうゆうものだ。井川さんは、そうゆう意味では、主役級という役者ではないが、この、実在の人々との演技、ドキュメンタリーは、見事である。こういう映画を、どんどん見て行きたいもんだ。

 

○滝ノ上徹(市蔵・里子の息子):磯村健治

彼は、2人の間に生まれて息子な訳であるが、すでに鉄道の保線を継いで行こうとブレがない。こんな国鉄マンが沢山いるんだろう。そして、合理化の中で、JRの中に散っていった。彼等の純粋な気持ちを誰が裏切っただろう。鉄道は、政治家のオモチャだ。鉄道で散々絞った後は、郵便だったんだろう。合理化ではなく経理化である。偉い人などと言わない様に。仏様は、見ていらっしゃる。

 

○滝ノ上由紀(市蔵・里子の娘):市毛良枝

市毛さんは、ある一時期において、大変な人気の女優であった。こうして見ると、地味な女優であるが、鼻の上あたりに独特の笑顔が隠れている。ああ、これか?という顔だ。

 

○佐多隆(由紀の恋人):長塚京三

この人の田舎に最後に行くのである。ネタバレとは関係のない映画だ。昭和の人々が皆他所を向かず、向く事も出来ず、懸命に頑張って来たその姿の結果がある。それは、新幹線で、全く違う北海道の女性との結婚を💒実現させる

 

端島 (はしま)は、長崎県長崎市(旧:西彼杵郡高島町)にあるである。通称軍艦島(ぐんかんじま)[2]。「羽島」とも書いていた[3]。

明治時代から昭和時代にかけて海底炭鉱によって栄え、日本初の鉄筋コンクリート造の高層集合住宅も建造されるなど、1960年代には東京以上の人口密度を有していた。1974年(昭和49年)の閉山にともなって島民が島を離れてからは、無人島である。

2015年、国際記念物遺跡会議(イコモス)により、端島炭坑を構成遺産に含む「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」ユネスコ世界文化遺産に登録された[4][5]。」Wiki

 

悪い事をした偉いさんも、振り返れば、たまたま偶然そこに生まれた人だと思って許して上げて欲しい。そう思わなければ、何故人は生まれ、生きて行くのか説明出来ないじゃないか?





 
 
 
 
 
 

素晴らしき日曜日  1947年 日本東宝

素晴らしき日曜日  1947年 日本🇯🇵東宝

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あらすじ

「ある日曜日、恋人同士の雄造と昌子は街に出た。所付金は二人合わせて三十五円と寂しいものだったが、仲良く街を歩く。モデルハウスを見学した昌子は、夢見がちになるが雄造が水をさす。それからというもの良い事は起こらず二人はふさぎこむが、最後には気を取り直し、夜の野外音楽堂で二人だけのコンサートを開く……。敗戦直後の風俗を背景に恋人たちのささやかな日常を描いて、爽やかな感動を呼び起こした心暖まる小品。

スクリーンの中から観客に向かって拍手を呼びかける前代未聞のシーンには、黒澤監督の熱い想いが込められており、本作がパリで公開された時には、映画館が熱狂的な拍手的な拍手につつまれたという逸話も残っている。」アマゾン

 

○所感

この映画を見るのは、もしかしたら30年ぶりである。池袋か新橋かの名画座で観たのではないか?何せ日曜日に会う恋人同士が、なんとも言えない貧乏で、靴に穴が空いていたのを覚えている。モデルハウスもよく覚えている。でも、僕にとっては羨ましかった。だって、その時は大学生で彼女も居ない。童貞でもあった。そうゆう清い僕には、この彼女が頑なに守っているものが何か理解出来なかった。その時、誰と見に行ったか思い出せないが、どうせ男である。

そして、30年後の今回。相変わらず日本人女性とは清い間柄だったが、僕は新しい視点から、新しい事が分かった。それは、「素晴らしい日曜日」が描く休日である。就職してから、つくずく思ったのは、充実した休日は中々来ない、或いは掴む事は出来ないものである。その数日前から、休みの日にワクワクし、期待も大きいが、その日になると大体つまらない事が多い。プランがあり、お金があれば尚更だ。ところがたまに、お金も無く、2人の間も何となくギクシャクしているにもかかわらず、或いは、子供がいて、何時もどうりグズグズしてメンバーの足並みが揃わないにも関わらず、「あーなんか良い日曜日だったね」なんて振り返る日があるものだ。この映画の2人が正にそれ。悪い事もあったけれど、極めて充実した人生の1日を過ごしているのだ。こんな時間は、お金を持っていても、家があっても、車があっても中々手に入るものではない。偶然そうなったのか、狙ってそうしたのかはわからない。でも、そうゆう意味での「素晴らしき日曜日」なのだ。だから、有名な最期のシーンは、この映画のあらゆる出会いの一幕に過ぎない。むしろ終わって最後に「素晴らしき日曜日」と題字を読み直す事にこの映画の価値がある。

黒澤明さんは、凄い監督だ。でも、自分の中にある実力以上のものは、偶然に出来たものは、自分が理解していないものという事で排除する事がある。実力のある人故か…

 

○監督:黒澤明 ※クレジット上は「演出」

 



○雄造:沼崎勲

彼は、あの時の僕。貧乏で目標すら無い僕。一番大事なものが、自分の手の中にある事を気付かず、人並みに性欲のある若者。でもいざ、性欲から目を逸らすと、色々なことが見えてくる。気が付けば、「素晴らしい日曜日」でしたと言うお話。

 

○昌子:中北千枝子

何故女性は、貞操を大事にしなくてはならないのか?何故男は女を欲しがり、女は拒むのか?それは、こんな休みの日に手に入れるべき物は、性欲よりも沢山あるからである。部屋でお昼までお互いの体を貪るよりもずっと充実したそれを、彼女は本能的に分かっている。彼女は、彼がそれを自分のために見つけてくれると信じ、ついて行く。

 

○与太者(ダンスホールの浮浪者):渡辺篤ロッパ一座)

○饅頭屋:中村是好エノケン一座)

男女2人が、主要な出演者であるが、この後に書いてあるエノケン、ロッパは何なのか、興味を持った。

 

エノケン・ロッパの時代

エノケンの「動き」の激しさについて、手だけで舞台の幕を駆け上る、走っている車の扉から出て反対の扉からまた入るという芸当が出来たという伝説がある。この人気に目をつけた松竹はエノケン一座を破格の契約金で専属にむかえ、浅草の松竹座で常打ちの喜劇を公演し、下町での地盤を確固たるものとした(ピエル・ブリヤント後期)。一方、常盤興行は、映画雑誌編集者であった古川ロッパ声帯模写などの素人芸に目を付け、トーキーの進出で活躍の場を失っていた活動弁士徳川夢声生駒雷遊らと「笑の王国を旗揚げさせのち松竹に所属、さらに東宝に移籍して有楽座で主に学生などインテリ層をターゲットとしたモダンな喜劇の公演を旗揚げし、「下町のエノケン、丸の内のロッパ」と並び称せられ、軽演劇における人気を二分した。」Wiki

 

 

○もう一度、自分にとって「素晴らしき日曜日」とはなんなのか、考えてみたい。こんな、障害者一級の僕にも「素晴らしき日曜日」はあるのだ。まして、健康な貴方なら…!

 

合掌

 





 
 
 
 
 
 
 
 
 

飢餓海峡 1965年 日本東映

飢餓海峡 1965年 日本🇯🇵東映

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あらすじ

戦後まだ間もない昭和22年、北海道岩幌町の質店強盗が押し入って大金を強奪したうえ、一家を惨殺し、証拠隠滅のため火を放つ事件が発生する。火は市街に延焼し、結果的に街の大半を焼き尽くす大火となった。その夜、北海道地方を襲った猛烈な台風により、青函連絡船層雲丸が転覆して多数の死傷者が出る。翌日から現場で遺体収容に従事した函館警察は、連絡船の乗船名簿と該当しない、身元不明の2遺体を発見する。(このあたりは洞爺丸事故や北海道の岩内大火を題材にして着想されている)。

函館署の弓坂刑事は、身元不明の2遺体が質店襲撃犯3人の内の2人であり、強奪した金をめぐる仲間割れで殺されたと推測する。同じ頃、青森県大湊(現:むつ市)の娼婦・杉戸八重は、一夜を共にした犬飼と名乗る見知らぬ客から、思いがけない大金を渡される。悲惨な境涯から抜け出したいと願っていながらも、現実に押しつぶされかけていた八重に、その大金は希望を与えてくれるものだった。その後、犬飼を追跡する弓坂刑事が大湊に現れて八重を尋問するが、八重は犬飼をかばって何も話さなかった。八重は借金を清算して足を洗い東京に出るが、犬飼の恩を忘れることはなく、金を包んであった新聞と、犬飼が使った安全カミソリ(映画版では犬飼の爪)を肌身はなさず持っていた。…」Wiki

 

○所感

最近注目している左幸子(杉戸八重)である。ちょっと太めの女性。この時代を代表する様な一見して地味な存在感のなさ。だが、実は映画の最も重要なポイントを押さえているのが、彼女である。前回見た(遠い一本の道)では、監督もしていた。

この作品では、特に彼女の性欲の発現が独特であり、彼女が売春婦であると言う仕事の内容から、バス🚌で乗り合ううちから、犬飼に興味を持ち、握り飯を食べさせ、町の置屋では犬飼を部屋に連れ混んでしまう大胆さ。しかも、その一つ一つが、抑制されているだけに、想像を絶する深い欲望を感じさせる。例えば、犬飼が使ったであろう(爪切り)安全カミソリを、自らの肌に当てただけで、彼女はエクスタシィに達してしまう。凄まじい演技?だ。本当にこの人は達しているのかも知れない。この事件は、結局のところ全部の謎が明かにされず、疑問を観客に投げつけるが、左幸子の手のうちで、観客は踊らされた様な気持ちになり、尚且つ左幸子への愛着さえ湧くのだから堪らない。

この映画の良さは、左幸子の情念と、三國のいい意味での人間のスケールの小ささと言う絡み。そして、伴淳と高倉と言う、別の国の人種の様な刑事二人と言うキャステイングである。それだけに、映画の終わり方が、ちょっと寂しいので、トマトを減らしてしまった。あれしか、終わり方はなかったのか?

 

○監督:内田吐夢

 

○出演

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樽見京一郎/犬飼多吉:三國連太郎

三國の何が好きと言って、強い男の弱さである。優しさではなく、収集のつかないところまで行ってしまう様な弱さだ。ここでも、そうゆうところを杉戸に入り込まれた。

 

○杉戸八重:左幸子

上記にも書いたとおりである。彼女は、最初から犬飼が彼女に着いて来ると分かっていた。そして犬飼は本当についてきた。そして、大金を置いて行った。彼女としては、「もう一度逢いたい」と言う一心だ。挨拶だけなんて事はないだろう。でも、犬飼は考えすぎた。杉戸に自分の秘密が暴かれると思ってしまった。杉戸に先回りして考えてしまった。ただいずれにせよ、一緒になっても長くいれる事はない気もする。

 

○弓坂吉太郎刑事・元刑事:伴淳三郎

コメディアンが、俳優になると言うのは、随分昔からあるんだなと思う。不思議なキャスティング、コントラストを表現するのに、重要な役割をする。映画と言う沢山の太い柱の中で、その自由な動きはガッチリと隙間を埋めているような気もする。だがそれは映画と言うシステムがはっきりしていた上での話だ。いつしか、コメディアンが、映画を監督する様になって、それが漫才になって、お笑いになって、あの日に帰れなくなってしまった。

 

○味村時雄刑事:高倉健

健さんの名前の設定が凄い。味村時雄、どうゆう言われの名前なのだろう。健さんが、若々しい。

 

○杉戸長左衛門:加藤嘉

杉戸八重のお父さん役。白黒の中に、目と口がくっきりと浮かび上がる。

 

○総括

この映画のラストがどうにも物足らず、であった。配役も完璧、カメラワークもブレ無く、飢餓海峡の最初のロゴテロップから良かった。何かあるべき物が無いのだろう。最初の殺人と、後半の殺人は、誰も信じないが別物だと主人公も言う。多分、そのとおりではないか?だからこそ、何処か中途半端なのだ。いや、或いはそう思わせようと画策しすぎ上手く行かなかったのかもしれない。それによって、この映画の男の登場人物のエネルギーが中途半端になり、杉戸八重のエネルギーだけが顕著になる。彼女の勝利なのだろう。以下に東映105って何か調べてみた。ソラリゼーションと言うらしい。

 

「現像時に、露光をある程度過多にすることにより、モノクロの写真作品の白と黒が反転する現象。意図的に行われ、その結果、白黒が(部分的に)反転した作品のこともソラリゼーションと呼ぶ。

マン・レイが写真の現像中に、助手であり愛人だったリー・ミラーが現像をしていた部屋のドアを誤って開けてしまったが、その結果生じたものを、マン・レイは「失敗作」とは考えず1つの効果として評価した、ということをその始まりとする説もある。」Wiki

 

合掌