migihanshin’s blog

半身不随だけれど 明るく しぶとく 生きていこう!

地獄門 1953年 日本大映

地獄門 1953年 日本🇯🇵大映

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○あらすじ

平清盛厳島詣の留守を狙って起された平治の乱で、平康忠は、焼討をうけた御所から上皇と御妹・上西門院を救うため、身替りを立てて敵を欺いた。上西門院の身替りとなった袈裟の車を譲る遠藤武者盛遠は、敵をけちらして彼女を彼の兄・盛忠の家に届けたが、袈裟の美しさに心を奪われる。清盛派の権臣の首が法性寺の山門地獄門に飾られ、盛遠は重囲を突破して厳島に急行した。かくて都に攻め入った平氏は一挙に源氏を破り乱は治った。袈裟に再会した盛遠はますます心をひかれ、論功行賞に際し、清盛から「望み通りの賞を与える」と言われるや、速座に袈裟を乞うが彼女はすでに御所の侍、渡辺渡の妻だった。」Wiki wand

 

○所感

面白い、が雨月物語には敵わなかった。そして、「羅生門」「雨月物語」「地獄門」の全てに京マチ子が登場し、最も重要な役を演じていた。やはりこうして見ると、「羅生門は飛び抜けている。映画の斬新さ、そして、陳腐を怖れず観客にダイレクトに訴える勇気。黒澤明はやはり凄いし、日本のこの頃の映画は凄い。生きる事への情熱が違う。あの戦争で300万人以上の太平洋戦争の死者が出た日本。生きることへの情熱と、今

まで表現出来なかった事を表現出来る自由。この頃の映画はそんな明るさと暗さがびんびん伝わってくる。

地獄門は佳作だ。考えていたより感動できなかった。少なくとも地獄では無かった。名前負けしていた。京マチ子も上記の3作の中では、一番抑え気味だった。

 

○監督・脚本:衣笠貞之助

 

○原作:菊池寛『袈裟の良人』

 

○原作:菊池寛『袈裟の良人』

 

 

 

○出演

 

盛遠長谷川一夫 >

この作品は、この役のエネルギーで引っ張る。実際、この人のお兄さんが平清盛への謀反に加わっており、前半での平清盛への忠誠のブレない姿は見事である。だが、この作戦の中で囮になった人妻の袈裟:京マチ子に惚れてしまい、人妻と分かっていながら清盛の諌めにも一歩も引かず袈裟に猛突進する。袈裟の身代わりの手柄はともかく、盛遠の手柄はそれ程のものであろうか?袈裟の夫である渡辺渡:形勲も、大人しく、或いは冷静で、こうゆう挑発に乗らないタイプ。映画のモチーフが弱いと感じたのは私だけだろうか?要原作確認。

 

「文覚(もんがく、生没年不詳[1][注釈 1])は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士真言宗。父は左近将監茂遠(もちとお)。俗名は遠藤盛遠(えんどうもりとお)[1]。文学、あるいは文覚上人、文覚聖人、高雄の聖とも呼ばれる。弟子に上覚、孫弟子に明恵らがいる。」Wiki

 

「『源平盛衰記』は、出家の原因は、従兄弟で同僚の渡辺渡わたなべわたる)の妻、袈裟御前wikidataに横恋慕し、誤って殺してしまったことにあるとする[注釈 12]。稀代の扇動者、文覚の前日譚が文覚発心である。事件は創作とされるが、登場する袈裟御前は絶世の美女、孝道と貞節の狭間で死を選んだ貞女とされてきた。」Wiki

 

勉強不足で申し訳無いが、文覚なら、歴史で習った覚えが。袈裟の事件の真偽は分からないが、この人の若い時の過ちだと言われれば辻褄があう。この事件の後、文覚は出家しているのだ。だとしたらこの作品は、文覚の前知識が必須となると言わざるを得ない。

 

「遠藤盛遠を名乗っていた頃の若き文覚。人妻・袈裟御前に恋し、その夫を殺害せんために寝室に忍び寄る。月岡芳年画」Wiki

 

繰り返すが、この映画は、この前知識を必須とした上で楽しむ映画だと思う。それを知らないと、何でこの兄さんはこんなに図々しいのかしら?となってしまう。必須は言い過ぎだった。でも物足りなさを感じてしまう。

 

○袈裟:京マチ子

彼女には、何ら非が無いのに、むしろ文覚よりも手柄は大きいと言うのに、女としてしか見られていない。論功行賞も無い。忠誠心も、貞操すらも評価されない。京マチ子の演技は、抑え気味である。ただ、京マチ子の姿がポスターにあるだけで、この映画への期待は高まるから不思議だ。

 

○渡辺渡:山形勲

ただ彼女の幸福は、夫が彼女を信じているという事だろう。

 

清盛千田是也俳優座

このような文覚の無茶苦茶な願い出にも関わらず、自分の権力の為なら清盛は袈裟の夫に妻を譲る事を、苦笑いしながら認める。この点において、清盛の演技は有りかなと思うのである。自分の事で無ければ、どんな異常なフィクションの実現も簡単に認めてしまう。実力者と言うのはこうでなくてはいけない。道理など無い。(どこかの国の王様見たいだ。)息子の重盛黒川弥太郎の方が余程常識人だ。だから平家は重盛の死から忽ちに滅んでしまう。

 

○総括

この映画を原作に忠実だと言われれば、ああそうでしょうねと答えるしかない。ただ、これだけの演技陣、もう少し見る側に訴えるものが欲しかった。そうでないと、地獄門は名前負けしてしまう。もう一つ、この映画が文覚の事件を忠実に再現しようとしているのなら年齢の問題がある。源平盛衰記の文覚は出家前の19歳。長谷川一夫はどう見ても19歳には見えない。根本的なところで、再現されていないのは、残念であった。

 

合掌