透明人間 2020年 アメリカ
あらすじ
「「ソウ」シリーズの脚本家リー・ワネルが監督・脚本を手がけ、透明人間の恐怖をサスペンスフルに描いたサイコスリラー。富豪の天才科学者エイドリアンに束縛される生活を送るセシリアは、ある夜、計画的に脱出を図る。悲しみに暮れるエイドリアンは手首を切って自殺し、莫大な財産の一部を彼女に残す。しかし、セシリアは彼の死を疑っていた。やがて彼女の周囲で不可解な出来事が次々と起こり、命まで脅かされるように。見えない何かに襲われていることを証明しようとするセシリアだったが……。」Wiki
○監督 リー・ワネル
○出演 エリザベス・モス, オルディス・ホッジ, ストーム・リード
○映画のジャンル
最小限のCGで描く、サスペンス、SF。
○最後まで見たか?
見ました。
○ビックリしたか? 驚いたか?
考えていた、CGこってりではなく、また、包帯サングラス、トレンチコートという透明人間ではなく、斬新でした。
○もう一度見たいか?
はい。
○一緒に見て困る人はいるか?
全然大丈夫です。心臓直撃ドッキリというシーンもありません。
○特筆すべき男優、女優はいますか?
主演のエリザベスモスの演技力が全てです。どこかで見たようなもさっとした、トロい感じの白人女性。追い詰められて、やつれていくのですが、そもそもやつれるほど、太っていくように見える。少しずつ強くなっていく。
○印象に残るシーンは?
一瞬、製作費の節約かと思わされる透明人間の登場。幼い頃から植え付けられたイメージを裏切られます。ただ、壁を主人公が見つめるだけで、そこに透明人間がいるような気になる。そんなシーンが連続します。
ところが、確実に透明人間の脅威は大きくなっていき、特に屋根裏に上がって透明人間の痕跡を探すところからテンポが速くなっていきます。
主人公のエリザベスモスが少しづつ強い女性になっていくのに気づかされます。
泡式の消火器をかけると、透明人間の居場所が分かってしまいますが、このシーンを見て、高校生の時に放課後の校舎で、泡消火器を掛け合って遊んだ暗い過去を思い出しました。あの時はその場に、透明人間はいなかったようです。
○監督については?
リー・ワネルというオーストラリアの監督。「アップグレード」という映画も面白いらしく今度見てみますが、今はアマゾンプライム対象外。レンタル400円。
○仏教的にはどうか?
今回イメージした上記の写真を見て頂ければ分かるように、そこに透明人間がいると思えばいるし、いないと思えばいないのです。これは正に仏教の空の思想を感じます。多分監督が仏教を意識していたということはないでしょうが、「この映画は、観客の妄想を頼りにして演出した。」というようなことを言っているようです。
透明人間は、もし実在する社会になれば、自分が今部屋に一人でいることは絶対ではないし、自らのプライバシーも絶対ではないのです。そして、それが自らに害を及ぼす存在であれば、この映画のようになるのですが、そうでなければ、自らの中にある仏性を観るという事になってくる。仏教的にみると、透明人間は深いテーマ。
○これ以上言う事は?(ここは、思い入れがある場合に書く。長文注意)
今は、ドローンがあるので、簡単に空撮で綺麗な絵が撮れるのは素晴らしいことです。CGだらけの映画より、こうしたあっさりCGの映画が増えていくのでしょうか?
○︎
原作は?
「H・G・ウェルズが1897年に発表した小説『透明人間』を原作としており、1933年に公開された映画『透明人間』を現代風にリブートした作品である。」Wiki
「H.G.ウエルズの透明人間は、薬を飲んで透明になった。また、タバコを吸えば、煙が気管を通るのが見えたという。これは、どうやら肉体が変化して空気と屈折率が等しくなった状態であると推測される。また、作品によっては光を回折させて透明になる、背景に合わせて服などが変色し、カメレオンのように周囲に溶け込こむ、という設定のものもある」Wiki
透明人間は、映画にするのは非常に難しい命題のようだ。僕は印象的だったのは、ターミネーターの何番目かに出てくる新型の透明ターミネーターが、印象的で衝撃的だった。でもこの映画の場合、女優の演技力のよるものが多いと思います。右半身麻痺の状態で透明人間になってもしょうがないような気がする。透明人間になる目的として、人は悪いことは悪い事は、悪いと認識しているので、わからないようにやりたいのだろう。でも、今の世の中はもっと巧妙になっていて、透明人間より巧妙に悪い事が出来る。
最後にWikiで発見した透明人間の話題は、プラトンだ。
ギュゲースの指輪
「ギュゲースの指輪(ギュゲースのゆびわ、ギュゲスの指輪とも)は、自在に姿を隠すことができるようになるという伝説上の指輪である。リュディアの人ギュゲスが手に入れ、その力で王になったという。また、プラトンの著作である『国家』において、ギュゲスの指輪を元に議論が展開される。指輪の所有者は自身の意のままに透明になることができるため、不正を犯してもそれが発覚することがない。そのため悪評を恐れる必要がなくなるが、それでも人は正義を貫くかどうかが検討されている。」Wiki
プラトンの兄グラウコンの主張
「さて、かりにこのような指輪が二つあったとして、その一つを正しい人が、他の一つを不正な人が、はめるとしてみましょう。それでもなお正義のうちにとどまって、あくまで他人のものに手をつけずに控えているほど、鋼鉄のように志操堅固な者など、ひとりもいまいと思われましょう。市場から何でも好きなものを、何おそれることもなく取ってくることもできるし、家に入りこんで、誰とでも好きな者と交わることもできるし、これと思う人々を殺したり、縛めから解放したりすることもできるし、その他何ごとにつけても、人間たちのなかで神さまのように振る舞えるというのに! ――こういう行為にかけては、正しい人のすることは、不正な人のすることと何ら異なるところがなく、両者とも同じ事柄へ赴くことでしょう。
ひとは言うでしょう、このことこそは、何びとも自発的に正しい人間である者はなく、強制されてやむをえずそうなっているのだということの、動かぬ証拠ではないか。つまり、〈正義〉とは当人にとって個人的には善いものではない、と考えられているのだ。げんに誰しも、自分が不正をはたらくことができると思った場合には、きっと不正をはたらくのだから、と。これすなわち、すべての人間は、〈不正〉のほうが個人的には〈正義〉よりもずっと得になると考えているからにはかならないが、この考えは正しいのだと、この説の提唱者は主張するわけです。事実、もし誰かが先のような何でもしたい放題の自由を掌中に収めていながら、何ひとつ悪事をなす気にならず、他人のものに手をつけることもしないとしたら、そこに気づいている人たちから彼は、世にもあわれなやつ、大ばか者と思われることでしょう。ただそういう人たちは、お互いの面前では彼のことを賞讃するでしょうが、それは、自分が不正をはたらかれるのがこわさに、お互いを欺き合っているだけなのです。
— プラトン、『国家〈上〉』岩波書店、1979年4月16日、109-110頁。」Wiki
私が思うのは、人間とはそんな単純に善悪を定義出来るものではなく、いい事をしながら悪い事をし、悪い事をしながら良い事をしませんか?と言う事です。ストイックに節度を持って、わからない様に、悪事を一生涯において完遂するものも沢山います。国家はその最たる例でしょう。
合掌